人類にはネットは早すぎた問題

2022/5/12作成

想像力の欠如にどう立ち向かうかで、ネットの事件は想像力の欠如によって起こっているのではないかと書きました。これ、言い換えれば「ネットは人類には早すぎた」ってことでもあると思うんですよね。まあ、この言説自体はあちこちでみかけますよね。

例えば私が誰かを誹謗中傷しようとしたとします。家の前で大声で叫んだところで通りすがりの数人程度の人にしか声は届きません。渋谷のスクランブル交差点で叫べば大勢に声が届くかもしれませんが、それでも数百人程度でしょうか。ネットがなければせいぜいこんなもんです。でもSNSに投稿してバズれば何万人もの人に誹謗中傷を届けることが出来てしまいます。つまりこれがネットの力なんですね。強大なネットの力が、その力の強大さの自覚も無く、使いこなし方も知らない人の手の中にあるというのが現状です。赤ちゃんの手元に核ミサイルのボタンがあるようなものでしょうか。

これは何もネットに限ったことではありません。IT技術どころか、それ以前からある機械文明の力すら人類は使いこなせていないです。なぜなら毎日のように自動車事故で何人もの方が亡くなっているから。道を歩いていて他人とぶつかったとしても、お互いにちょっと痛かったなくらいで済みます。お年寄りや子供であれば倒れてケガをするかもしれませんし、打ちどころが悪ければ亡くなるかもしれません。でもそれはレアケースですよね。一方自動車です。アクセルをほんのちょっと踏み込んだだけで、何人もの方を跳ね飛ばして死なせてしまうことが出来ます。それだけの力を自動車という機械は持っているわけですが、今の人類がそれを使いこなせているとはまだ言い難い状態ですよね。

ではネットも機械も全て無くしてしまえばいいかというと、そんなことはないです。私は楽観主義者なので、未来はきっと今よりもよくなると信じています。比較に挙げた自動車事故ですが、様々な人々の不断の努力によって事態は格段に改善しています。かつて交通戦争と言われていた時代からすると死者数は数分の一です。日々のニュースではどうしてもセンセーショナルな事故が取り上げられますから事態は悪化しているように感じますが、社会全体としては着実に良くなっています。もちろん、事故にあった当人にとってはいくら全体が減っていたところで関係ないという話はあるのですけれどね。

ネットも同じです。インターネット自体は冷戦時代に始まりましたが、当初はごく少数の研究者の間だけでやりとりされていました。1990年代に商用プロバイダが登場してネットが普及しだしても、まだまだネットを使うのは一部の人に限られていましたので、この頃のネットは今からみれば無法地帯もいいところでした。それを牧歌的であったと懐かしむ方もいらっしゃるでしょう。正直、私自身もそういう気持ちがないでもないです。でも、今ほどネットが普及した時代において1990年代と同等のネットであれば、それは牧歌的ではなく北斗の拳的な荒廃した社会になってしまうでしょう。つまり、わずか20年ほどの間でも人類は随分とネットを使いこなすようになってきたのです。

冒頭に戻ると、確かに人類にネットは早すぎたのだと思います。でも、着実に人類もネットを使いこなしつつあります。近い将来、きっと安全にネットを使いこなせる時代がくるのではないかと思っています。