楽器が演奏出来るってこういうことかな

2020/11/10作成

私、アラフィフになって突然にサックスを習い始めまして。これまでの人生で音楽には一切関わったことがなかったので、何もかもが全くの初心者の状態から初めて、何もかもが新鮮で楽しい毎日です。

それはともかく、こうして楽器を習い始めて、どうもこれまで外部から楽器が演奏出来るってこういうことかなと思ってたことが勘違いだったのかなということに気が付いたので覚え書きしておきます。この覚え書きも勘違いの可能性も高いですが。

私がこれまで思ってた楽器が演奏出来るってのは、楽譜が読めて楽譜の通りに演奏できることだと思ってたんですね。でもどうもそれって楽器が演奏できるとは言わなさそう。いや、楽譜が読めて楽譜の通りに演奏できるだけでも十分に立派で、現在の私はとてもそんなレベルには到達してないので、これもあくまでも想像でしかないんですけれども。

自分の身近な例に置き換えて考えてみましょうか。例えば日本語で書かれた文章があって、それを声に出して読めるかというと、読めます。文章が平易な内容であれば理解できますが、難解な文章であればとても理解できません。適当な例がうまく思い浮かばなくて日本語じゃなくなってしまいますが、般若心経を声に出して読めるかというと読めますが、何が書いてあるのかその内容はさっぱり理解できません。

楽譜が読めて楽譜の通りに演奏できるというのは、この般若心経を言葉通りに読んでるのと同じようなことではないかなと思ったわけです。楽譜の通りにただ演奏しても、そこには曲に対する理解は全くありません。曲の構成がどうなっているのか。コード進行がどうなっているのか。作曲者がどういう意図を持って曲を作ったのか。演奏者はそれをどう読みとって演奏するのか。そういったことは一切無くても出来るのが、楽譜が読めて楽譜の通りに演奏出来るということではないのかなと思ったわけです。

文章を用意しなくても、私は日本語では考えたことをその場で話すことが出来ます。そこで次は何という音を発声しなければならないかとか意識することはありません。思考から言葉、発声へは全くの無意識で行われます。楽器が演奏出来るというのは、楽器で自分の思考や感情を無意識に演奏できるという状態をいうのではないかなと思ったわけです。

現在の私はサックスで楽譜の通りに演奏することすら出来ないわけですが、楽譜の通りに演奏できるようになったとしても、その先には見上げるばかりの高い壁が待っているのだなぁということに、今ようやくに思い至りました。以前20時間の法則で、短時間の練習で技能は習熟できなくても、プロのすごさが実感できるようになるというようなことを書きました。私はサックスについて、ようやくその20時間の域に到達できたのかなと思います。今の年齢からでこの先どこまで自分が上っていけるのかわかりませんが、一歩でも先に進めるといいなぁと思います。

(2020/11/13追記)

楽譜の通りに演奏できることが悪いことのようにも読めてしまうので補足。当たり前だけど、そんなことはありません。

また違うたとえ話をしますが、絵を描くことにおける模写に相当するんじゃないかと思うんです。楽譜通りに演奏するってのは。模写が出来るだけの人を絵描きとは言わないとは思いますが、だからといって模写がダメなわけではありません。絵が描けるようになるための重要な練習であることは間違いありません。だから、楽譜通りに演奏することも、それはそれで重要なステップなんだろうと思います。守破離の守に当たると言えるのかもしれません。

また、プロとして活動するならともかく、趣味として楽器を演奏するのであれば、楽譜通りに演奏するのでも全く問題ないでしょう。趣味ですから、当人が楽しいかどうかが一番大事なことです。当人がそれで楽しいなら、外野の誰かが文句を付ける筋合いがあることではありませんね。そもそも、楽譜通りに演奏するだけでもとても楽しいものですし。

(2023/3/30追記)

上で書いたことと実質同じようなことですが、ちょっと思いついたので書きます。

楽器の練習の一つにスケール練習があります。ドレミファソラシドって奴ですね。基礎中の基礎になるわけですが、これって言葉に置き換えると赤ちゃんがあーとかうーとかうなっているのと同等のことなのかなと思います。赤ちゃんはそうやって少しずつ発声の訓練をします。周りの人からの声を聴きとり、自分でも少しずつ話していきます。最初は単語で、次に二語文でとだんだん複雑な言葉を発することが出来るようになり、数年かけて自由に自分の意思を言葉で表現できるようになります。

よく外国語を習得するときに人間は数年でしゃべれるようになるんだからって例えがありますが、比較方法がおかしいんですよね。赤ちゃんはしゃべれるようになるために、起きてる時間のほとんどを会話の訓練に費やします。自分でしゃべってなくても、周りの人の声を聞いています。毎日何時間もの訓練を1日も休むことなく数年間続けてようやく母語の習得が出来るわけですよね。一方、外国を習ってる人はどうでしょう。週に数時間程度のレッスンしか受けてないのであれば、赤ちゃんが母語習得にかけるのと同じ時間に達するのには何十年もかかりますよね。そりゃ外国語が容易に習得できないわけですよね。

そして楽器の習得も同じかなと。無味乾燥でそれ自体に意味がない基礎練習からだんだん複雑な表現を訓練していくことで楽器を使って自由に自分の意思や感情を表現できるようになる。音楽のことを世界共通言語と言ったりしますよね。人種や民族を超えて感じることが出来るという意味で使われますが、ある意味で音楽の習得は言語の習得と同等という意味でもあるのかもしれない。実際、音楽を聴くのにもある程度の素養が必要ですし、ましてや音楽で表現するためには多大な訓練が必要なわけですから、これは言語の一種と言っても差し支えないかと思います。

もひとつ別の例え話。アドリブ演奏ってあるじゃないですか。あれって演劇の世界で置き換えると即興劇に相当しますよね。即興劇では舞台と役者だけが用意されて、劇自体は役者がその場で考えなら進行していく。役柄と小道具などの設定はあるかもしれないけど、そこで交わされるセリフはその場で考えさせられる。相手の役者が発したセリフで状況がどんどん変わっていき、その状況に合わせてどんどんセリフを考えて発していく。多分アドリブ演奏も似たようなものですよね。ステージに演奏者が揃い、テンポやコードがある程度決まっている中でそれぞれが自由に演奏していく。相手がこういう演奏をしてきたから、ではこう返してやろうとやる。そんな感じなんですよね。私はまだアドリブ演奏出来ないので、想像でしかないんですが。

こう考えると即興劇もアドリブ演奏も非常に高度なことをしているなと思うんですが、一方で少なくとも即興劇は実は誰でも出来るしやっている。なぜなら日常生活においての会話は全て即興劇であるとも言えるから。観客が居るかどうかくらいですよね、違いって。日常会話では台本なんてもちろんありません。相手が言ってきた言葉に対して自分でその場で考えて言葉を発す。それの繰り返しで会話が成り立つ。要は即興劇ですよね。別にだからって即興劇が誰でも出来る簡単なことだって貶めたいわけではなくて。そしてアドリブ演奏は日常会話に相当することを音楽でやる。やっぱり言語と音楽って階層として近いものがあるんじゃないですかねぇ。

アドリブ演奏が即興劇だとすると、クラッシック音楽は歌舞伎などの型のある伝統芸能に相当するのかな。どちらも同じ演目をいろんな人が型にはまった演じ方をします。型にはまるというとあまり良くないことの意味合いもありますが、この場合はそうではないですよね。そもそも型通りに演じれるというだけでも大変な努力の結果の上に成り立つことです。また、型通りだからといって誰が演じても全く同じになるわけではない。型の中で演者それぞれによって工夫がなされていく。そんな感じなのかなぁという気がしました。クラッシック音楽も歌舞伎も全く素養がないので、勝手な想像でしかないのですが。