What is ウィキペディア

2013/8/13作成

はじめに

「ウィキペディアとは何か」というたいそうなタイトルをつけましたが、最初に言い訳をしておきますと、ここでウィキペディアのすべてを書ききるわけではありません。そもそもこのようなテキスト量で書ききれるテーマではありませんし、私にそのような大きなテーマを書く力量があるわけではありません。

ではなにを書くかというと、ウィキペディアについての簡単な解説です。ウィキペディアという名前を聞いたことがある人はたくさんいるでしょうし、実際にウィキペディアの記事を閲覧したことがある人も多いでしょう。では、ウィキペディアがどういうものであるか、どういう仕組みで出来上がっているのか、それを知っている人というとどうでしょうか。それは意外と少ないのではないでしょうか。私自身も2011年にウィキペディアの編集に参加するようになるまでは十分に理解しているとは言えませんでした。また、ある程度理解するようになった自分からすると、ウィキペディアに対する誤解というのは意外とたくさんあるのだなぁという風に感じるようになりました。って、かつての私もそのように誤解していた一人なのですけどね。

ウィキペディアについて誤解する人が多いというのはそれも当然で、理由の一つはウィキペディアは従来的な概念の範囲を大きく逸脱する、新しい思想と仕組みで出来上がっているからです。多くの人の従来の知識範囲を逸脱するものですから、理解できなくて当然です。別の理由としてウィキペディア自身による広報の不足もあると思います。ウィキペディアン(ウィキペディアの編集に実際に参加している人をそう呼びます)は、ウィキペディアの編集には一生懸命ですが、それをウィキペディアの外の世界に知らせることはあまりしていないようです。広報という機能があまり働いていないとでも言いますか。そこで、ウィキペディアンの一人として、勝手ながら少しでもその「外に知らせる努力」をしてみようかと思い、このようなテキストを書くことにしてみた次第です。

ウィキペディアとはなんだろうか

ウィキペディアを一言で説明すると「オンラインの百科事典」となります。オンラインはネット上のと言い換えてもいいでしょう。どちらでも同じ意味ですが、後者の方が用語として一般的でしょうか。百科事典といえばセールスマンが売り歩いていた本棚とセットになった何十冊もの豪華な装丁の本を思い起こす人もいるかと思います。そのような紙の本である百科事典と比べて、ネット上にある電子データである百科事典というのは、それだけでも十分に従来の価値観から進化したものになります。ただ、ネット上の百科事典というのは別にウィキペディアの専売特許ではなく、従来の紙の百科事典を出版していた会社も大抵はネット上でも百科事典を展開しています(もしくは販売していました)。

では従来の百科事典とウィキペディアの最大の違いは何かというと、それは「フリー」であるということです。この場合のフリーとは、オープンソースソフトウェアにおけるフリーと同義です。それもそのはずで、ウィキペディアは1990年代後半に起こったオープンソース運動に影響を受けて立ち上げられたプロジェクトなのです。

オープンソースソフトウェアにおける「フリー」とは一般には無料であることと解釈されます。それも大きな特徴ではあるのですが、より本質的で重要なのは「自由」であるということです。この場合の自由とは、使用の自由、改変の自由、再配布の自由を言います。オープンソースソフトウェアは、ライセンスに従う限りどのような人や組織であっても、どのような目的であっても自由に使用することが出来ます。そこでは犯罪者やテロリストでも差別されません。犯罪者やテロリストに対して使用制限を行うことは開発者の自由ではありますが、そのようなソフトウェアはオープンソースソフトウェアとは呼びません。

改変の自由とは、オープンソースソフトウェアを改造することが制限されないということです。自分の使いやすいように自由に改造することが出来ます。そして再配布の自由とは、オリジナルのままであろうとも自分で改変したバージョンであろうとも、それを自由に再配布することが出来るとうことです。オープンソースソフトウェアの対義語としてはプロプライエタリソフトウェアというものがあります。これは一般に企業が営利目的で開発して販売しているソフトウェアです。代表的なものとしては、マイクロソフトが開発して販売しているWindowsが挙げられるでしょう。Windowsは自由に使用することが出来ません。パソコンとセットで購入したWindowsは他のPCにインストールして使用することができません。使用目的もアカデミックライセンスでは商用利用できないなど制限が存在します。Windowsを改変することもできませんし、再配布することももちろんできません。だからといってWindowsやプロプライエタリソフトウェアが悪いわけではありません。ライセンスは法律に違反しない限り開発者が自由に決めることが出来ますし、その販売を利益としている企業にとっては自社にとって有益であると考えるライセンスを採用することは当然の権利です。

さて、オープンソースソフトウェアの説明だけで大変長くなってしまいましたが、オープンコンテンツであるウィキペディアにおけるフリーもオープンソースソフトウェアにおけるフリーと同義です。まず使用が自由であること。誰でもどんな目的にでも無制限に使用することが出来ます。改変することも自由ですし、再配布することも自由です。

そして、もう一つのウィキペディアの大きな特徴は、誰でも編集に参加できることです。一般に百科事典は少数の学者などの有識者が集まって執筆します。その分野の専門家の方が執筆するわけですから、記事内容については一定の信頼性が期待されますが、一方でこの方法での執筆には時間がかかります。出版までには何年もかかりますし、改訂にもやはり時間がかかります。となると、新しい概念や事象は掲載されていませんし、従来からある事象でも最近になって発見された新事実については掲載されないことになります。

ウィキペディアはネット上に存在し、誰でも編集に参加できます。編集された結果はリアルタイムで更新されます。ですので、新しい事象や概念であっても、それを執筆する人がいればすぐに掲載されることが期待されます。誰でも編集に参加できますので、少数の専門家ではカバーできないような広範囲の記事が掲載されることも期待出来ます。実際、従来の百科事典ではあまり掲載されていないような分野の記事がウィキペディアには多数存在します。例えばサブカルチャーと呼ばれる分野の記事があります。果たして「8時だョ!全員集合」の記事が掲載されている百科事典が存在するでしょうか。ウィキペディアにはもちろん存在します。学術的に価値があるかどうかとは関係なく、ありとあらゆる事象について収録することをウィキペディアは目指しているのです。

ウィキペディアはどのようにして出来上がっているのか

概念的な話が随分と長くなってしまいましたので、ここで少し実際にウィキペディアがどのように作られているかについても簡単にご説明しましょう。

先ほど例に挙げた「8時だョ!全員集合」について知りたいと思ったとき、あなたならどうしますか。こう言ってはなんですが、本棚にある紙の百科事典をひもとくという人はあまり居ないと思います。マニアックな人であればテレビ番組やドリフターズに関する専門書籍を所持していて、そちらを見るかもしれません。さらにマニアックになれば、録画したビデオテープを視聴するかもしれません。今ならYoutubeに大量にアップロードされていたりもしますけどね。

そういう少数のマニアックな人をのぞけば、大半の人はインターネットの検索エンジンで検索するでしょう。そして、検索して一番に表示されるのはウィキペディアの「8時だョ!全員集合」の記事になります。その記事には、番組に関する情報がいろいろと書かれています。番組がいつから始まっていつまで続いたのか。視聴率がどうだったのか。主な出演者やコーナー。そして社会的な影響や批判まで。「8時だョ!全員集合」についてのありとあらゆることが書かれているとは言いませんが、概略的なことは網羅されています。あなたがよほど特殊な細かい情報を求めているので無い限り、おおよその知りたい情報は得られるでしょう。

さて、必要な情報を得たあなたは、しかし記事に間違いも見つけたとします。例えばですが「いかりや長介」が一カ所だけ「いかりや長助」となっていたのを見つけたとしましょう。従来の百科事典ならこのような誤字を見つけたら、出版社に報告して改訂を待つしかありませんでした。しかし、ネット上に存在し、誰でも編集できるウィキペディアでは待つ必要はありません。ページの上部にある編集ボタンを押して、編集画面で長助を長介に書き換えて保存すれば、それで修正完了です。その瞬間から誰が閲覧しても誤字は修正されているのです。

修正するのはなにも誤字に限ったことではありません。記載されている内容に間違いがあれば修正してもいいですし、記載されていない情報をあなたがお持ちなら加筆しても構わないのです。このように、閲覧者がその場で編集者になることができる、言い換えればすべての閲覧者が編集者になり得るのがウィキペディアの大きな特徴です。閲覧に制限のないウィキペディアは理屈の上では人類の全員が閲覧者になり得ますので、すなわちウィキペディアの編集は全人類参加型のプロジェクトとも言えます。全人類参加は少々誇大表現としても、圧倒的多数の人が少しずつ力を持ち寄って参加するこのような仕組みを集合知と呼びます。

なお、これらの特徴はなにもウィキペディアの専売特許ではありません。ウィキペディアを不十分だと考えてスピンアウトしたプロジェクトもありますし、全く別の系統から発生したプロジェクトもネット上には多数存在します。人的リソースの配分という意味ではこのように多数のプロジェクトが乱立している状態はもったいなくはあるのですが、多様性の方が大切ですのでこういった状態は望ましいものだと思います。

よくある誤解

このようなウィキペディアですが、最初に書いたとおり多くの誤解も生まれています。ここではそのようなよくある誤解とそれについての解説(反論?)を記しておきます。

正しいことが書いてある

ウィキペディアにこう書いてあったからそれが正しいと言う主張はよく見かける光景です。ですが、こう言っては何ですがその分野の専門家とも限らない編集者が執筆した記事です。それが正しいということはウィキペディアは保証してはいません。間違いがあれば閲覧した人が修正することを繰り返し、より正しい内容に近づくように努力が続けられていますが、それはいつ完成するかを約束できるものではありません。内部では「ウィキペディアは永遠に完成しない」とも言われております。

少し余談になりますが「ウィキペディアに書いてあったから正しい」というのは、ウィキペディアをテレビや新聞に置き換えても成り立つ言説です。2chに置き換えることも可能でしょう。こう言ってはなんですが「○○だから正しい」と思ってしまうのはある程度は仕方がないにせよ、すべての判断をそのように外注してしまうのは情報リテラシーの問題でしょう。

うそっぱちである

何度も書いていますが、ウィキペディアの記事はその分野の専門家が書いたとは限りません。もちろん専門家の方が執筆している記事もあるのですが、大多数はそうではなくて素人の執筆した記事です。専門家によるものではないから正確性に疑問があるという指摘はそれはもっともです。それについては反論の余地はありません。

こうした指摘とは違って、たまたま閲覧した一つの記事に一カ所間違いがあったことを取り上げてウィキペディアの全てが不正確であるという主張をする人がいます。言ってしまえば、オールオアナッシングの考え方ですね。先ほども書きましたが、ウィキペディアは80万以上の記事が存在します。この方は一つの記事の一カ所の不正確性をもって80万以上の記事の全ての不正確性を類推しているわけです。これがナンセンスであるというのは説明するまでもないですよね。

なんでも掲載されている

ウィキペディアにあるべき記事の全てが実際に執筆されているわけではありません。ウィキペディアの編集者は全て無償のボランティアです(報酬をとって記事執筆を請け負う闇業者も存在するそうですが、ここではそこまでは考えません)。編集者がどのような分野のどのような記事を執筆するかは編集者自身の自由意志に任されています。どのような記事の執筆が望まれているかといった情報共有は行われていますが、それが実際に執筆されるかどうかは、執筆する気になった編集者が現れるかどうかにかかっています。

なので、あなたが調べたいと思ったことがウィキペディアに掲載されていないということは当然にあり得ます。それは残念なことですが、ウィキペディアの仕組み上仕方のないことでもあるのです。ここで勘違いしないで欲しいのは、「ウィキペディアに載ってないからそのような事象は存在しない」とか「ウィキペディアに載ってないから重要な事象ではない」ということはないということです。その記事が存在するかどうかは、あくまでも執筆する編集者が存在するかどうかで決まります。

一度書いたことは消えない

これは誤解ではなく本当のことではあるのですが、一般の閲覧者にとってはそうでもないように見えるという話です。ある記事について、以前見たときの記述が今はみあたらないということを経験したことはありませんでしょうか。実はこれはウィキペディアでは日常的に起こっていることです。ウィキペディアの編集は誰でもいつでも自由にできます。編集は修正や加筆に限ったことではありません。問題であると思われる記述を除去するのも立派な編集です。また、記事自体が問題があるということになれば記事全体が削除されることもあります。こうした結果、記事を閲覧しても、かつての記述が存在しないということがあり得るのです。

ただ、念のために補足しておくと、ウィキペディアの使用しているシステムでは全ての編集履歴を保存してあります。履歴表示というボタンをクリックすることで過去の履歴も閲覧できます。ですので、現在の記事からは削除されてしまった記述も履歴をたどることで閲覧することはできます。また、記事自体が削除された場合も実際には閲覧許可が取り消された状態でシステム上には残されています。管理者という特別なユーザはこの削除された記事も閲覧できますし、閲覧許可を再び与えることも出来ます。なので、一度書いたことは消えないというのはウィキペディアにおいては厳密に言うと誤解ではありません。

学生がレポートに使用してはいけない

現実に学生がウィキペディアの記事を丸写しにしてレポートを提出し、教授がウィキペディアをチェックしているということが起こっているそうです。調べる参考にウィキペディアを利用するならともかく、丸写しでは学習の意味がありませんから、学生にウィキペディアを利用することを禁止している教授も居たりするそうです。

禁止することは教授と学生の問題ですので別に構わないのですが、補足しておくとウィキペディアとしては別にレポートに使用することを禁じてはいません。使用が自由なウィキペディアですので、レポートに使用することも自由です。使用が禁じられるのは、あくまでも教授が学生に対して禁止しているだけのことです。ただし、使用の自由はライセンスには従う必要があります。具体的には表示義務というものがありまして、この場合はレポートがウィキペディアから転載したものだということをレポートのどこかに明記しなければいけません。それをせずに自分がレポートを書いたことにしたら、それはライセンス違反ですのでウィキペディアとしても禁止していることです。そもそも著作権法違反でもあるのですけどね。ウィキペディアの記事は全て著作権フリーではありません。

全ての記事が同じ基準で書かれている

何度も書きますが、ウィキペディアの執筆はボランティアの編集者が行っています。同じ分野の記事でも複数の人が編集に参加していますから、記事のスタイルや文体、網羅している内容が統一されているわけではありません。同じ人が執筆していても、統一されているとは限りません。

このような記事による不統一性は、従来型の百科事典であれば編集者がチェックして修正することになっています。しかし、ウィキペディアには編集者はいません。結果、同じ分野の記事ですら、体裁すら統一されていないということは多々起こっています。もちろんこうしたことは望ましいことではありませんので、できるだけ体裁や文体、網羅する内容を統一するような努力は行われているのですが、それも完全には至っていません。

名鑑のたぐいではない

ウィキペディアはあくまでも百科事典です。百科事典とは重要な事柄を解説した記事を集めたものです。逆に言えば、さほど重要でない項目は収録されないわけです。例えばテレビ番組について。古今東西の全てのテレビ番組についての記事が存在すると、それはそれで便利かもしれません。しかし、それはテレビ番組名鑑です。百科事典ではありません。百科事典では全てのテレビ番組の記事を収録するのではなく、重要なテレビ番組についてのみ収録します。これはテレビ番組に限ったことではなく、他の分野についても同様です。

ただ、この考え方は絶対というわけではありません。ウィキペディアには古今東西全てのテレビ番組の記事を掲載するべきだという考え方もあります。これを包摂主義と呼んでいます。ただ、現在のところウィキペディアでは包摂主義はあまり取り入れられていません。

黒幕がいる

はい。出ました。陰謀論ですね。いつの時代にも陰謀論が好きな人が存在します。ウィキペディアが社会的に大きな影響を与えている現実から、ウィキペディアを牛耳る黒幕が存在し、その黒幕が意のままに世間・世論を操ろうとしているという風に考える人は存在します。

が、はっきり言ってこんな主張は馬鹿げたものです。そもそも陰謀論自体が馬鹿げていて論じるに足りないものなのですが、百歩譲って陰謀論自体には合理性があるとしましょう。でも、ウィキペディアが陰謀論に基づいて運営されているということは、実際にウィキペディアの編集に参加してみればあり得ないということがすぐにわかります。

ウィキペディアには80万もの記事が存在します。黒幕が自分の意志に沿った主張に記事の内容を誘導しようとしたとして、果たして80万もの記事をそのように書き換えることができるでしょうか。実際に行おうと思ったら、ものすごい人手が必要です。黒幕とはそんなに多数の手下を抱えているのでしょうか。実際のところは誘導したい世論に関する記事は80万もないでしょうから、人手の問題も置いておくことにしたとします。でも、ウィキペディアの記事はいつでも誰でも自由に書き換えられるのです。黒幕が自分の主張に沿った記事に書き換えたとして、それを閲覧した人がおかしいと思ったらすぐに修正することができます。それを黒幕がさらに戻したとしても、またすぐに修正することができます。つまり、ウィキペディアの記事は多数の目に触れて、そしてすぐに編集できるというシステムによって、少数の意見だけに偏ることを防ぐシステムになっているのです。もちろん、それは理想論であって一部の記事で黒幕的に自分の主張に沿った内容に記事を維持している人は存在するでしょう。しかし、ウィキペディア全体を統括する黒幕は、その仕組み上存在することはできません。

ここまで挙げてきたような誤解は、なかには誤解ではなくウィキペディアの真実の一面をついている指摘もあります。ただ、それは理想と現実の乖離という部分もあるかと思います。ウィキペディアの理想としては誤解なのだけど、現実の運用としてはそこまで理想通りにはできていない部分もありますので、それが問題となっていることもあります。開き直るわけではないのですが、ウィキペディアとて理想の存在ではなく、多数の問題と矛盾を抱えています。そのような問題を抱えていながら、現実社会に大きな影響を与えるまでになってしまっているということをウィキペディアは真剣に考える必要があるでしょう。

ウィキペディアによってもたらされるもの

ここまでウィキペディアがどのようなもので、どのような仕組みで運営されているか、どのような問題点が存在するかなどをみてきました。実際のところ多数の問題を抱えているウィキペディアですが、全体としては比較的うまくいっているのではないかと思います。2000年代前半にWeb2.0や集合知という言葉がもてはやされたことがありました。ウィキペディアは間違いなくその一角を占めていたわけですが、このときもてはやされたウェブサービスで現在まで活動を続けているものはそれほど多くありません。しかし、ウィキペディアは生き残って現在も活動を続けています。

ウィキペディアは実際に社会を変えたと私は考えています。そして、ウィキペディアがさらに活動を広げることによって、さらに社会は変わると思います。インターネットによって情報革命が起こりましたが、インターネットはあくまでもインフラです。そこに乗っかるコンテンツがなければ意味がありません。そして、ウィキペディアはコンテンツであり、そして今では非常に重要なコンテンツの一つとなったと言えるでしょう。多数の問題をはらんだウィキペディアですが、それでも多くの情報を多くの人に容易に提供するということを実際に果たしてきたのではないでしょうか。

私が好きな言葉に「真理はわれらを自由にする」というものがあります。国立国会図書館法の前文に記載されている文章の一部であり、初代国立国会図書館館長である金森徳次郎氏による書が国立国会図書館に掲げられているそうです。人は情報に基づいて物事を判断します。情報が与えられないと判断することができません。そのためには、まずは教育が大事です。情報を与えられても、それを租借するだけの素養がなければならないからです。そして、十分に教育を与えられた人々は十分な情報によって、より適切な判断ができるようになります。適切な判断ができるようになれば、社会をよりよくしていくことができます。そのように私は考えますし、ウィキペディアはその助けになるものだと信じています。