なぜ「ほぼAI」のエイベックス・松浦noteは絶賛されたのか 発信者に問われる「その人である必要性」
AIを使って既存情報を要約した記事は炎上し、松浦勝人氏が自身の情報をAIで要約した記事は絶賛されたことから、一次情報は価値があり、二次情報には価値が無いというお話です。
まず前提としてだけど、炎上するかどうかは時の運ということ。絶対に炎上する、炎上しないという方法論はありません。後付けで「こんなん常識で考えれば炎上するに決まってるだろう」という人はいくらでもいますが、常識は常に変わるし、ネットの空気はもっと頻繁に変わるし、そもそも公平ですらない。今はAIで作文したら炎上する傾向はあるけど、数年後にはAI作文が当たり前になりすぎて「昔はAIで作文した文章で炎上したらしいよ。考えられないねぇ」ということになる可能性だって十分にある。
それはそれとして、一次情報に価値はあり、二次情報に価値はないという指摘自体には同意する。大きく分けて三つの時代区分があるんだよね。
まず最初はネット以前の時代。この時代は情報にアクセスすること自体が難しかった。書店や図書館に行って膨大な書籍から該当する情報を探し出さないといけなかった。武熊健太郎さんが言ってたけど、かつては書籍や雑誌で情報を調べてまとめるだけのテキスト作成がライターの仕事として成り立っていた。雑誌のミニ情報コーナーなどですな。しかしネット時代になってそんな情報はググればすぐに出てくるようになってライター仕事としては成り立たなくなったそうです。さもありなん。
多分この時代には情報へのナビゲーターの価値がいまよりもはるかに高かった。図書館の司書だとか、書店員だとか。ミニ情報を執筆するライターもだね。
ネット登場によって時代は変わって、情報へのアクセス自体は非常に容易になった。もちろんネットに無い情報もまだまだあるので、ネットを全てと過信すると誤るんだけど、その構造自体はネット以前にも書籍に全ての情報があるわけでないという形で存在したのと一緒。そしてネットで情報へのアクセスは容易になったけど、必要な情報を見つけ出すのは相変わらず難しかった。検索エンジンで検索しても膨大にヒットして自分が必要な情報がどれかというのは一つ一つの記事を吟味しないと分からない。そもそも検索キーワードを思いつかないと検索できないし、存在すら知らない概念については検索自体が出来ないという問題もある。また、得られた情報を咀嚼する難易度もある。必要な情報が〇〇白書に載っていると分かっても、その白書の膨大な情報を咀嚼しないと意味が抽出できないのであれば、やはり簡単に情報を得られるとは言えない。得られた情報が学術論文であれば、その咀嚼には専門知識が必要になるしね。
この時代には情報は存在してもその発見や咀嚼が難しいという課題がまだあるので、キュレーションというのが随分ともてはやされた。情報を紹介するインフルエンサーの価値も高かったし、まとめサイトというのも流行りましたね。つまり二次情報は十分な価値を持っていた時代。
そして現代はAI時代。情報の検索も、情報の咀嚼も、AIがやってくれるようになった。「〇〇について教えて」と生成AIのプロンプトにうてば、あっという間に情報を探し出して要約してくれる。意味が分からなければ追加でプロンプトうてば解説してくれる。この時代に至って、二次情報の価値は激減した。だってAIに聞けば、その場で一次情報をもとに二次情報をまとめてくれるんだもの。
という前提条件を整理したうえでようやく本題ですが、AI時代には一次情報が必要とされ、二次情報は価値が薄いという話です。
AIが即座に要約してくれますから、ネット時代に流行ったようなキュレーションやまとめ情報の価値は激減します。これまで情報を要約して流すことで利益を得ていたキュレーターやインフルエンサーは食えなくなっていくでしょう。冒頭の記事で紹介された炎上した記事はまさにこれですね。
一方、絶賛された松浦氏の記事は一次情報です。正確には既に発表された記事の要約ではあるのですが、情報の出どころ自体は松浦氏個人ですから一次情報とよんで差し支えないでしょう。
つまり二次情報という手段はAIが代替するようになったので、人間はAIで代替できない一次情報で勝負する必要があるということです。構造としてはプログラミングなど、AIで代替する仕事についての話と一緒ですかね。
ではAI時代に勝負できる一次情報はどこにあるのか。手っ取り早いのは自分自身の体験談なんだよね。乱暴に言ってしまえば松浦氏のnoteもこれなわけで。個人の体験談は他の人には決して真似が出来ないので価値がある。昔の人の何気ない日常をつづった日記が、当時の世相を知る資料となったりもしますよね。もっとも個人の体験談なら絶対に価値があるとも言えないけども。例えば毎日のランチをSNSにアップしたところで、ほぼ類似の情報は既にネットに溢れているわけで、シャノンの情報量的な意味でも埋没してしまう。毎日ラーメン二郎を食べ続けた康太さんのようになんらかの独自性が無いと価値は生まれない。昔の人の日記も現存数が少ないから価値があるわけで、たくさん残っていたら統計処理の素材としてしか価値しか生れない。
AI時代にあえて二次情報で勝負するとしたら、一つは非デジタル化情報を扱うことかな。ネットが普及しだしたのは1990年代なので、それ以降のことはデジタル化が進んでる。逆に言えば1980年代以前の情報は書籍や雑誌にしか残っていないものもまだまだ多い。こうした情報を掘り起こして提供すれば、二次情報でも価値は生まれる。
また二次情報だからって、誰がまとめても同じになるわけでもない。情報の取捨選択、切り口などでキュレーターの独自性は出しようがある。もっとも、取捨選択や切り口自体がその人でしか提供できない一次情報であるという見方も出来るので、やっぱり価値があるのは一次情報とも言えるけどね。