「強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の弱さ考」読書メモ

2026/8/3作成

「強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の弱さ考」(ISBN:978-4478120378)を読みました。

弱さについてのまとめとか提言があるのかと思ったけど、どうやら違うっぽい。筆者が思考した軌跡がひたすら述べられているだけで、特に結論も提言も無い。途中まではなんらかの結論があると思ってたから、やたらと他の書籍の引用があるので都合のいいところをチェリーピッキングしてるんじゃないかと思ったけど、筆者の読書と思考の記録とすれば納得。その思考の断片から読者は自分自身の思考を広げていくと。書籍全体としてはそんな感じかな。

個々の記述にはなるほどなと思うところもあるし、それはどうかなと思うところもある。社会が加速して競争が苛烈になっているというのは納得する。筆者はそれを資本主義によるものとしてるけど、それだとソ連や旧東欧諸国といった資本主義の外にある共産主義国家が競争に敗れたことが説明がつかない。また筆者自身も今の社会の加速は太古の石器時代から綿々と続くものだとしているのに、その人類の歴史の中でみると資本主義なんてつい最近に登場した考え方に過ぎない。なので私は人間社会そのものが内包している業のようなものだと考えてる。

これは私の誤読かもしれないけど、筆者自身が今の競争社会は問題なので人に優しい社会に作り替えるように提言しているような気がした。その提言自体はわからんでもないけど、筆者自身の中に「うつになったけれど、それでも自分は社会を変えるような価値のある行動をしなければならない」という呪縛に囚われているんじゃないかなという気もした。誤読だったら本当に申し訳ないけど。

アメリカの教育システムが現代社会のビジネスルールに沿っていて、それに適合しない日本の教育を受けた自分はビジネスの仕組みに馴染めないというのは、仮説として筋は通ってる。でもそれだとアメリカ人はみんなルールに適合してて、日本人はみんな敗れ去ることになるけど、現実にはそうなってないよね。アメリカだってうつ病大国だし、日本人でビジネスルールに乗って勝ち進んでる人はたくさんいる。この仮説については、筆者がうつ病になったのは自分自身のせいではなく、日本の教育システムがビジネスルールに合ってないからだという他責ストーリーを信じたいようにも読めた。これも誤読だったら申し訳ないけど。

なるほどなと思ったのは、未来に目標を置くと、現在が手段化してしまうということ。これは私の中にはなかった視点なので面白かったし納得もした。豊かな老後を過ごすために今は辛い労働に耐えましょうと例示すると分かりやすい。若い時は若い時で楽しみたいよね。未来のために今を犠牲にするのは多少は仕方ないにしても、全てをささげるのはどうかと思う。もちろん人によって価値観人生観によるけど。

とまあ本に対していろいろ言ったけど、私自身の弱さ考についてちょっと整理。まず私は弱く愚かであるということを認める。それを認めるのは難しいんだけどね。私は仏教を少しかじったことがあるのでそれに基づいた思考をすることがあるんだけど、弱さを認めるとは悟りの一種ではないかと思う。そう簡単にはできないし、また悟ったら悟ったことによって欲や業が発生して悟りから離れてしまうという性質もあるので、悟り続けるのは悟る以上に難しい。それくらい弱さを認めるのは難しいけど、でも真理は多分そこにある。

もう一つ。ビジネスのルールは社会のルールでもあるので、苛烈な競争は弱まらないし、いくらロハスとか唱えたところで加速は止まらないと思う。これは社会の仕組み自体の話だから。止まるとしたら文明が崩壊するときだけだろうね。なのでそのルールは受け入れるしかないんだけども、人生の全てにおいて適用する必要はない。ビジネス社会というのはスポーツの試合みたいなものではないかと。スポーツでは一定のルールの下で勝負し、点数を多くとった方が勝ちとなる。

ビジネスも同様。スポーツよりも複雑だけど社会のルールに基づいて競争し、より稼いだ方が勝ちとなること。大事なのは試合の外にも生活や人生があるという切り分けをすることではないかな。スポーツの勝者は称賛されるけど、社会の全てにおいて勝者ではない。また、敗者であっても家庭や友人の間では良き人であることも十分に成り立つ。

スポーツの試合メタファーは他の意味でも成り立つ。優秀なプレイヤーも、その競技そのチームでのこと。ビジネスでもその会社や業界で、その地位で優秀ってだけのことで、他の会社や業界ではさっぱりということはいくらでもある。スポーツのプレイヤーだってチーム移籍して大活躍とかあるし、野球でパッとしなかったけど別の種目に転向したら才能を開花したってこともありえる。どこに行っても優秀であることもビジネススキルとして大切ということもあるけど、汎用性の高さにスキルを振りすぎると深掘りできないというジレンマもある。そう考えるとビジネスで優秀ってことも、あるケースにおける一過性の現象に過ぎないということが分かるかなと。

スポーツの試合メタファーは実はビジネス社会だけではなく、この世そのものにも適用できる。この世と自分自身との相対というとらえ方。自分自身が尺度になるから、自分の誕生から死亡までという時間に限られるけど。仏教の考えでは、六道輪廻における人間界というとらえ方だね。この場合、ビジネス社会では競争の外にあって味方であった家族や友人も相対の向こう側にいってしまう。自分はただ一人でこの世の全てと相対することになる。

またスポーツの試合メタファーでは参加しない(福祉に頼るなど)とか、別のチームや種目に転向する選択肢があったけど、こちらには選択肢はない。ということでより過酷ではあるんだけど、生きてる限りこの競争には参加せざるを得ない。仏教ではそれを修行と捉えるわけだけど、なかなかしんどいよね。