個人知と集合知は排他ではない

2013/8/19作成

個人か集合知か--知の巨人からの警鐘

私は集合知の可能性を信じている人間ではありますが、だからといって個人知を否定するつもりはさらさらありません。これまでの人類の発展が、ごく少数の天才による個人知によってもたされたということに異論はありませんし、これからもそれは基本的に変わらないでしょう。

ニュートンの万有引力や、アインシュタインの相対性理論が集合知から生み出されるとは私も考えていません。こうした従来の概念をひっくり返すような大発見は、これからも個人の天才性によってのみ発見されるのだろうと思います。

では集合知は無意味かというと、それも違うと思います。集合知は個人知を否定するものではありませんし、集合知と個人知は排他の関係にあるわけではなく、両立できるものでしょう。これまでは個人知のみに頼っていた人類が、新たに集合知という武器を得た。それによってより強力な知恵を得るようになった。そういう風に考えています。集合知によって、従来の個人知では発見できなかった新たな知見を人類は得られるようになりました。しかし、これまでと同様に個人知による知見の発見も続くでしょう。ただそれだけのことだと思います。

また、見方によっては従来の個人知も実は集合知の一種であるとも言えます。ニュートンだってアインシュタインだって、それまでの数千年の先人の知識の集大成の上に新たな大発見を行ったのです。全くの無から発見したわけではありません。古来の多数の学者の知識の集合の上に成り立っているという意味では、個人知も集合知の一種であるとも言えるでしょう。

なので、集合知を認めることは個人知を否定するものではなく、両立しうるものですし、そもそも個人知と集合知も実は同一のものであるとも言えると思うのです。