才能マッチング問題

2024/3/25作成

『才能はマッチングの問題』例えばピアノの才能があったとしてもピアノにアクセスできる環境じゃないと才能の有無はわからない

こういうの、よく考えるよね。世の中の一流の人は自身の持っている才能の種目とちゃんと出会えたからこそだって。イチローは野球の才能があって野球に出会ったから一流になったのであって、もしもサッカーをやってたら補欠で終わってたかもしれない。でもそれは果たしてそうなんだろうか。

音楽が抜群に凄い人は「生まれつきではない」証拠

一方でこんな記事もあるんだよね。曰く、才能なんてものはなくて努力でしかないと。この記事が正しいとしたら、イチローはサッカーをやっても一流になっていたことになる。よく言われることだけど、「努力する才能」ってのが才能の正体かもしれないね。

ただ、才能なんてものがないってのもそれはそれで自分自身の経験を振り返ってみてもちょっと腑に落ちない。多分だけど、野球とかピアノとかのもの凄いピンポイントではなく、もうちょっと広範囲で才能があるんじゃないかな。運動能力が高いとか、音感やリズム感が優れているとか、そんな感じ。実際、体育の時間に先生がお手本を見せたらそれと同じ動きがさっと出来る子はいるわけで、それは運動能力の才能があるってことだと思う。私みたいに出来ない子は何度やっても出来ないからね。私だってさんざん練習すればある程度のことは出来るようになるけれど、さっと出来る子との差は何だというと、やっぱりそれは才能という言葉で表されるのではないだろうか。

(2024/3/26追記)

ところで、2番目の記事って才能の違いはないってことになってるんだよね。例えば先生のお手本を見てすっと体操が出来る子は、それ以前に体を動かす訓練を他人の何倍も繰り返してきたってことになる。それはそれで理解できなくはない。ほんの幼児の頃であっても活動内容はひとそれぞれ大きな違いがあるわけで、運動系の活動をより多くしていた子は小学生くらいでも何百時間もの訓練の差があることもあるでしょう。

ただ、それではモーツァルトが3歳でチェンバロ弾いて5歳で作曲もしたってことの説明にはならないんじゃないかな。そりゃ2歳3歳の頃から音楽の猛特訓を受けたのかもしれないけど、それで凡人の音楽家を追い越すほどの能力を5歳で身につけることが出来るんだろうか。というか、モーツァルトを才能ではなく、ただの努力の積み重ねだと言ってしまっていいんだろうか。それはやっぱり納得のいかないところはあるよねぇ。あり得る説明があるとしたら、2番目の記事の調査対象はあくまでも凡人の中の話であって、モーツァルトのような歴史に残るような天才は調査対象になってないから分からないってことかもしれないけど。

ということで、才能については結局よくわからないってことになってしまいました。またまあ、いろいろと考えてみましょうかね。