「いじめをなくそう」ではいじめはなくならない

2013/2/26作成

昨年の大津の事件にしてもそうですが、あいも変わらずいじめに関する事件というのは起きています。

言うまでもないことですが、いじめは良くないです。悪いことです。あってはならないことです。それは間違いありません。なので、こういった事件が起こると「いじめをなくそう」ということになるのですが、残念ながらそれはいじめの根絶には効果を挙げていません。だって、現実に事件は起きているじゃないですか。

なんでいじめが根絶できないかというと、一つには方法が悪いから。いじめが社会問題になると、文部科学省が教育委員会などに指示を出して、まずいじめの実態調査を行います。いじめ対策をまとめ、それが効果を挙げているか追跡調査を行います。一見まともな方法に見えます。しかし、ここには大きな罠があります。

どういうことかというと、いじめを減らすことが評価基準になってしまっているので、いじめが実際に発生した場合には、それを隠すインセンティブが発生するのです。いじめの件数を減らすには、実際にいじめが起きないように行動するよりも、いじめがあっても見てみぬふりをして報告しない方が簡単ですからね。そりゃ、現場の先生のほとんどは生徒・児童に真摯に向き合っている方々だとは思いますよ。でも、一人の人間でもあります。それが自分の評価に直結するとなったら、それを振り払うことは難しくても責められない。結果、いじめられた生徒が勇気を出して先生に報告しても、ちゃんと取り合わないということになってしまう。報道されるいじめ事件でも、ほとんどの場合で学校側はいじめがあった事実すら認めていませんよね。その裏には、そういうからくりがあるのではないでしょうか。あと学校の評判というのもありますよね。学校選択性を採用する自治体も広まってきましたから、いじめで学校の評判が落ちることを教師が嫌うというのも十分あることだと思います。

もう一つのより根源的な問題は、そもそもいじめはなくならないということです。別にいじめを容認するわけでもなんでもなく、いじめは社会性の動物である人間が根源的に持っている行動の一つではないかと思うからです。学校に限らず、群れている限り会社でも地域社会でも、どこでもいじめは起こっています。唯一いじめが起こらないのは無縁社会です。ひとりぼっちで引きこもっている人は、いじめにあいませんよね。もしかしたら無縁社会というのは、人類が進歩して到達した新たな地平なのかもしれません。ただ、実際にはそれで全ての人が生きていけるわけではありません。現実には大半の人が群れて暮らすしかないわけで、そこにはいじめは存在し続けます。

つい最近も、いじめをなくすには道徳教育が必要だとかいう答申を政府の詰問機関の偉い先生とかが出したそうですが、そんなもんでいじめは絶対になくなりません。というか、どうやったっていじめはなくならないんです。だから営業マンのノルマのようにいじめ件数を競ったって意味がないのです。どうやったって、いじめは絶対に起こるんです。だから必要なのは、いじめをなくす方法を考えるのではなく、いじめが起こったときに、それをいかに軽微に終わらせるかなんです。だから数値目標を掲げて競わせるのなら、いじめ件数を減らしたことを評価するのではなく、発生したいじめに対して止められた比率を競わせたほうがまだマシなんです。もっとも、それも表面上だけ終わらせるような報告が発生するだけでしょうから根本的な意味はないでしょうけれども。ともかく、役人の発想で数値目標を単に設定するようないじめ対策は全く意味がありませんし、○○すればいじめはなくなるというような提言も全く意味がありません。いじめは人類の負った業です。いじめが発生するのは、人が必ず死ぬのと同じくらい必然なのです。まずその前提に立つところから始めないと、なんの意味もありません。

(2023年7月17日追記)

自殺事件があっても校長が「イジメではない」と…イジメや不登校を隠蔽してまで学校が“ウソをつく”理由

いじめのニュースがあった際に、教師や学校や教育委員会が決まりせりふとして「いじめはなかった」と隠蔽しますけど、なんでそうするのかこの記事で理由がちょっとわかったような気がする。もちろん単独の理由ってことはなくて複合的だろうし、事例ごとに理由もさまざまだろうとは思うんですけれども。

いじめを隠蔽する理由として出世に影響するからかなとか考えたんですが、よくよく考えるとその理由はゼロではないにしても少なそうですよね。そもそも出世を望んでる先生が多数派とも思えないし。そうではなくて、要するに教師である自身のアイデンティティを毀損するからいじめを認められないんじゃないかなと。

いじめは教師の指導力不足で起こっているとされているため、いじめを認めることはその教師の指導力が不足している、教師としての資質に欠けるということを認めることになってしまう。校長や教育委員会も同様ですよね。管理職としての劣っていると認めることになってしまう。これは対外的な評価もですが、そもそも自分自身のプライドの問題なので、認めるのは容易ではないですよね。人間、自分の過ちを認めることはそう簡単なことではありません。誰だって間違いを認められなくて意地をはってしまった覚えはあるかと思います。教師は聖職とはいえ、しょせんは生身の人間ですから、そうやって自分を守る本能が働いてしまうのは仕方ないことだと思います。

ここで思い出したのが「失敗の科学」という本です。この本では医療業界をはじめとして、いろいろな業界で失敗を認めることが出来ず、同じ失敗を繰り返してしまっている実例が報告されています。これだけ多数の事例があると、むしろ人間としてはこのような反応が普遍的なことだとも思えますね。一方で、唯一例外的に失敗を認められている航空業界の例があげられています。航空業界では事故があった際に関係者を一切責めることをせず、客観的に原因究明を行い、対策をまとめると。その原因と対策のレポートは世界中の航空業界の関係者がいつでも自由に閲覧して学ぶことが出来るようになっていると。こうした仕組みを構築できたことによって、航空業界はまれにみる低事故率を達成していると。

本を読んだ感想としては、航空業界という素晴らしい先例があるのだから、他の業界もそれにならえばいいのにと思いますよね。教育業界も、いじめがあった際に教師や学校や教育委員会の責任にせず、客観的にその事例を分析して再発防止策をこうじていれば、たぶん今頃いじめは撲滅に近い状態を達成できていたのではないかと思えます。でも実際にはそれは出来ていない。そこんところがもどかしいなぁと思います。この例に限った話ではありませんが、既に正解はわかっているのに、それが実施できないことによって世の中で間違ったことが行われているということが多々ありますよね。なんとかならないかなぁと思うけど、正解の方法を世間に広めるということ自体が難易度の高い課題であるから、そこの解決を考えないといけないのでしょうね。