多様性を求めるという均一性

2022/10/19作成

日本の「多様性」観に物申すモーリー・ロバートソンさんの連ツイがパンクで単純に読み物としても最高

多様性を求めるといいつつ、ステレオタイプな価値観に落とし込もうとする取材者という矛盾について。なるほどねぇ。確かに言われてみればそうかも。ポリコレとかフェミニズムとかLGBTとかでもそういう感じを受けることはあるような気がしますね。

こういうと「多様性というのなら、多様性を認めない俺も認めろ」という詭弁を持ち出す人もいるから注意なんですけどね。ていうか、個人が自分の内心として多様性を認めないのは自由なんですが、それを他者に強要するのがダメなわけで。殺人する自由を認めないのと同じ構造の話かと思います。

このまとめを読んだときにいくつか思いつくことがあってメモしておこうと思ったんですが、こうして書き始めるまでに時間があいてしまって忘れてしまいました。思い出したら書くということで、ひとまずアンカーとして残しておきます。

(2022/10/28追記)

書きたかったことを一つ思い出した。最近、分断というキーワードがよく使われるようになった気がします。近しい意味で階層化とか二極化とかも使われています。いずれもニュアンスとして「よくないこと」として使われていると感じます。

例えば富裕層と貧困層の分断とか、保守と革新の分断とかそんな文脈ですが、多様化が正義だとするとこうした分断も問題ないことになりませんかね。それは屁理屈かな。

分断を許容しろと言っても、別に貧困層を固定化しろってわけではなくて。貧困を悪かというと、まあ悪な部分もあるんですが、分断批判の中では貧困は存在そのものが悪という雰囲気が感じられる。そうではなくて、貧困でも文化的な生活が送れるような制度が必要なのであって、貧困自体は悪ではないと思うんですよね。でも世論というかマスコミは一億総中流であるべきだという論調が感じられる。言うまでもありませんが、一億総中流は多様ではないですよね。

分断の本当の問題は分かれた階層間での交流や移動がなくなってしまうことだと思うんですよね。多様性ってのはそれぞれが違っていて、それでいてお互いに存在を認め理解しあっている状態ですよね。分断はお互いのことを認めていなかったり、存在自体を認識してなかったりする点が違うかなと。

結局自分でも何か言いたいのかまとまってませんが、とりあえず思いついた言葉を書き出してみました。考えが整理出来たらまた追記します。