配慮はどこまで必要なのか

2022/9/24作成

せっかく近くに来たんだから食事でも一緒に…そんな親戚の「思いやり」が悲惨な結果を招いてしまったワケ

LGBT当事者である筆者、なんですよね。記事ではそのあたりは当然のことということで説明が省かれていたもので。界隈では著名な方なのかもしれませんが、無知なもので全く存じ上げなかったので、当事者なのか支援者なのかもわかりません。LGBTのどれなのかもわからないし、戸籍性・自認性が何なのかもわかりません。筆者名からは自認性が男性っぽい感じをうけますが。

まあそれはともかく、記事の内容はLGBTの当事者である筆者が親戚の食事会に呼ばれてしまった。親戚に対してはカミングアウトしてないので話題に困って非常に居心地の悪い思いをしたとのことです。記事を読んでの思ったのは、大変な思いをしたのはわかりましたが、ではこの筆者は社会がどうあって欲しいと思っているのか分からないことでした。

記事を読んで思い出したのは、少し前に話題になった「結婚式の加害性」という言葉です。結婚したくても出来ないLGBTの方々、といっても結婚できないのは主にLとGの方々ですよね。これらの方々が結婚式に呼ばれたり、同僚や友達から結婚の報告を受けると、自分は結婚できないのにと傷つくというお話しでした。

総論として、傷つく人は居なくなった方がいいです。傷つく人がいないように配慮できる社会である方がいいと思います。なんとかハラスメントは無くなった方がいいです。それはそう思います。でもここで親戚の食事会とか結婚式をやり玉にあげるのってどうなんでしょうか。「障害者様」みたいなもので、LGBTの人たちが「私たちはマイノリティで虐げられているんだから、世間に対して何を要求しても許される」って振る舞ってるようにも見えなくもない。それはLGBTの人たちも本意では無いですよね。

幸せな人が居れば不幸な人もいます。不幸な人からすれば幸せな人をみると傷つくこともあるでしょう。だからって、幸せな人は幸せであることを悪であると感じて隠さなければならないのでしょうか。高校野球で試合に勝っても敗者を気遣って喜んではいけない、二分の一成人式で両親への感謝の手紙を書かせることは虐待を受けている子や両親が居ない子を傷づけるのでしてはいけない、不妊治療で苦しんでる人がいるので妊娠や出産報告はしてはいけない、などなど。1年365日、人が亡くならない日はありません。世間のどこかでは家族を亡くして悲しんでいるのに、自分だけ幸せでいいのだろうかと思い悩むのは気遣いなのでしょうか。世界中には飢餓や戦争で苦しんでる人がいるので自分の慶事を祝うのは身勝手な事なのでしょうか。2011年3月11日に結婚式を挙げた人も、子供が生まれて親になった人もたくさんいると思います。その人たちは一生自分の慶事を呪われたものとして忌避し続けなければならないのでしょうか。

いくつか例を挙げましたが、例として適切でない話も混じっていると思います。正直、私としてはまだこの問題をどう整理していいかよくわかっていません。なので挙げた例が適切であるかどうかもわかりません。とりあえず現時点の思考としてまとめたまでです。親戚食事会ハラスメントや結婚式ハラスメントと、セクハラやパワハラとの違いは何なのか。セクハラはパワハラは言語道断だけど、親戚食事会や結婚式は無くすべきものなのでしょうか。

配慮は合った方がいい。それは間違いないでしょう。ではどこまで配慮すべきなのか。その線引きは可能なのかどうか。線引きするとしたらどこですべきなのか。何をしたところで、それに傷つく人はいるでしょう。完全に配慮を尽くすと、一切何も出来ない社会になってしまいます。昭和の時代にはそういう配慮が一切なかったので、マジョリティがやりたい放題でした。それはそれで問題ではありますが、令和の時代がマイノリティがやりたい放題になるのも違うでしょう。

そもそも冒頭の親戚食事会も、親戚食事会自体がダメなわけではないんですよね。多分。「お前まだ結婚してないのか。早く結婚して孫の顔をご両親にみせてやらないとダメだぞ。がっはっは。」みたいなことを言う昭和価値観の親戚がダメなんですよね。久しぶりだねぇ、懐かしいねぇってほのぼの話に終始するなら、それは筆者にとっても楽しい時間だった可能性もあるんじゃないですかね。

LGBTの人たちが親戚食事会や結婚式を傷つくから無くせというのなら、それらの会を楽しみにしている人はどうなんでしょうか。こういう問題提起は「俺のセクハラする権利を取り上げるな」って言ってるのと同じことなのでしょうか。などなど、記事を読んで考え始めたけど、自分としての考えが全然まとまらないけれど、とりあえず現時点で考えたことを書き出してみました。

(2055/9/25追記)

線引きについてちょっと考えました。まずパワハラ、セクハラについて。これらは加害者と被害者が別々です。それに対して結婚式ハラスメントは親戚食事会ハラスメントは加害者と被害者が同一人物であるというのが違いかなと考えました。結婚式を開催して加害しているというけれど、実は結婚した夫婦自体は何も加害してないんですよね。そこで被害者に加害を行っているのは、自分は結婚できないのにと思っている被害者自身なんじゃないでしょうか。そこが一つ大きなポイントかなと思います。

では加害者と被害者が同一のハラスメントは一切配慮が不要かというと、そんなこともない。全てが不要ではないけれど、配慮があった方がいいケースもある。そこの境目は、被害者となりうる人の人数かなぁというのが線の引き方の一つではないかと。

例えば東日本大震災では2万人近くの方が亡くなるか行方不明になるという大きな被害がありました。亡くなった方にはそれぞれ家族や親戚、友人などがいらっしゃいますから、直接に服喪される方は何十万人もいらっしゃったかと思います。そんな状況の中で、自分に慶事があっても無邪気に祝うのははばかられるから自粛しようというのは、ある程度納得のいく考え方ではないかと思います。亡くなった方が少数であれば配慮しなくていいのかというと確かにおかしな話ではあるんですけれども、どこかで線を引かないとしょうがないなら人数で線を引くのもある程度はしょうがないかなと思うわけです。

LGBTの方々は隠しているだけで実際には相当な人数がいるということが様々な調査でわかってきました。身近でLGBTなんて会ったことが無いという人は、単に周囲の当事者はカミングアウトしてないだけと考えるのが妥当です。会社でも親戚付き合いでも、人が10人20人と集まった場であれば、その中に一人か二人のLGBT当事者がいると想定するのは令和の常識と言っていいかと思います。そこでLGBTに配慮した言動をするのは必須と言えるでしょうね。

一方、いい例が思い浮かびませんが、100万人に一人くらいしかいないマイノリティがあったとして、日常生活にその人たちに向けた配慮を常に行わなければならないというのは、ちょっと合理的ではないかなとも思います。そのマイノリティの方がその場にいらっしゃるのが明らかなら、配慮はあって当然かと思いますけれども。

とりあえずこんな感じで考えてみました。