刈り取られた日本語

2021/3/10作成

私、趣味で漢字検定を受けておりまして。数年かけて勉強して、なんとか2級まで合格することができました。2級は高校卒業程度ということで、一般的に使われてる漢字が出題範囲になります。

2級の上には準1級と1級がありまして、試しに準1級の過去問題を見てみたのですが、これが笑えるくらい全く分からない。もしかしたら別の言語なのではないかと思ってしまうくらい、見たこともない漢字や熟語のオンパレードです。

それだけなら単に私が無教養だなぁで済む話ではあるのですが、ここまで全く見たことも無い漢字や熟語が存在するというのは、もしかしたらちょっと怖いことではないかなと思ったので少し書いてみます。つまり、準1級と1級に出題されるような言葉は、刈り取られてしまった言葉なのではないかということ。

普段、様々な媒体で文章に触れます。それは単一の表現者によるものではなく、多様な表現者の手によるものです。表現者によって使用する表現は様々ですから、準1級や1級に出てくる漢字や表現は少なくはなったとしても全く存在しなくなるというのは明らかに不自然です。存在しなくなっているということは、誰かが言葉を刈り取っているわけです。その刈り取っているうちの代表が常用漢字であることは間違いないでしょう。また、マスコミには使っていい表現をまとめたハンドブックがあるそうですね。記者が幅広い表現で記事を書いたとしても、デスクや校正係が常用漢字やハンドブックにある表現に置き換えているわけです。こうして幅広い表現は刈り取られ、ある意味画一的な狭い表現だけを目にするようになっています。

言葉は相互にコミュニケーションを取るための手段ですから、伝わらないと意味がありません。表現者が難しい表現を使っても、それを受け手が知らなかったらせっかくの内容が伝わりません。より多くの人に伝わるようにというガイドラインとして常用漢字やマスコミのハンドブックがあるわけで、それはそれで有用だと思われます。しかし、結果的に目にする表現は非常に幅の狭いものになってしまっている。

私たちは文章を目にするだけではなく、学校や職場でネットでと多彩な場で自分でも表現を行っています。しかし、知らない表現は使いようがありませんから、自然と常用漢字やマスコミのハンドブックと同じ制限の中で表現することになってしまいます。私たちは自由自在に表現を操っているようでいて、実は文科省やマスコミの手のひらの上で踊っているに過ぎないわけです。しかも、私たち自身は手のひらの上に居るということにすら無自覚なのですよね。お釈迦様の手のひらの上を飛び回っていた孫悟空と同じく。

別にここで文科省やマスコミの陰謀論を唱えたいわけではありません。それぞれに思想統制や表現規制の悪意はなかっただろうと思います。それぞれの職務に忠実であろうとした結果、現在の状況が生まれてしまった。しかし、そこに悪意はなかったとしても、悪意を持って同じ仕組みを用いて表現規制や思想統制を行うことは可能だなと思うと、恐ろしいものがあるなと思いました。

(2021/3/11追記)

1日経って読み返してみると、随分と一方的に常用漢字とマスコミを悪者にして叩いてしまってますね。これ、あくまでも私の思い込みですので、ここまで決めつけるのは適切ではなかったかなと思います。すいません。

ただまあ、大筋の論旨自体は変わらないんですよ。広く使われていない表現は廃れてしまう。勘のいい人はここで表現規制に話を繋げたいのだなとピンときますよね。そうなんです、話をそこにもっていきたいんです。

表現規制派の人は禁止するわけではないと言いますが、制限された表現は廃れていってしまうものなんですね。難しい漢字や熟語の表現のように。難しい漢字や熟語も禁止されてるわけではないけれど、一部の専門家や好事家の間でしか使われなくなっており、一般には死んだ表現になってしまっている。

一方で表現規制派の人の気持ちもわからないでもない。本屋に行っておっぱいがどーんと丸出しの表紙がずらっと並んでたら、成人男性である私としてもこれはどうかなぁと思ってしまう。とはいえ、表現の自由は大事な原則であって、なんとか委員会の人とかが勝手に許される表現と許されない表現を決めていいものではない。それは検閲や焚書への道へまっしぐらだから。

ということで、どうしたらいいのかなぁというのは自分の中でもうまく考えがまとまっておらず、もやもやしているところです。はい。