大学に進学すること

2020/8/9作成

例によって私自身や私の会ったことのある人などからの数少ない経験からの話です。N=1のくだらない話なので、その程度に適当に聞き流してくださると大変ありがたいです。私自身の立場を示しておくと、私は一応四大卒です。

読みようによっては学歴差別のようにみえるかもしれませんが、本人としては差別の意図はありません。しかし実際には差別する人は差別の自覚が無いのが一般的でしょうから、学歴差別なのかもしれません。ひとまず現時点での自分の考え方を書き出しておいて、引き続き考えていきたいと思います。

という例によって長い長い予防線を張ってのお話です。大学に進学すると言うこと。言い換えれば大卒と非大卒の違いについてです。

一般論としては、大学で学ぶのは問題解決能力と言われています。高校までの勉強は教科書に正解が載っている内容を無批判に覚えることなのに対して、大学では正解が未解明だったり、そもそも正解が存在しない問題について考えるわけです。正解が存在する問題に対しても、その過程を改めて批判的に検討したりもします。

もちろん全ての大学がこうした教育を行っているとは思っていません。大学が教育を行っていても、全ての大学生がこうした教育内容を身につけているとも思っていません。ただまあ、一般論として大学というのはそういう教育を行う機関であって、大卒というのはそういう能力を身につけていると期待される存在であるということです。

学歴否定論者はしばしば「大学を出ていなくても立派な人はいる」ということを主張されます。それ自体は間違ってないのですが、そもそもこの主張は「全ての大卒者は、全ての非大卒者よりも優れている」ことに対する反論なんですね。そんな大学万能論なんて誰も主張してないわけで、主張してないことに対して反論されても困るよなと思うわけです。大卒で優れている人もいるし、大卒で優れてない人もいる。非大卒で優れた人もいるし、非大卒で優れてない人もいる。当たり前の話ですし、そもそも人間をなにをもって優れているって判断するかって問題もあるわけです。大卒者は大卒者としての能力を持っていると期待されている。たたそれだけの話です。大卒者に期待される能力が社会において有用なら大卒者は優れた人という言説も成り立ちますが、そもそも社会において求められる能力も多様ですので一概に言えません。

もう一つ大卒者に期待されることは、自分自身の人生において大学で学ぶということを選択したという意志を持ってるということかなと思ってます。端的に言ってしまえば、学問というものに対して一定の価値を見いだしていると。もちろん、これまた例外はいくらでもあると思います。また、学問に価値を見いだして大学進学を希望していたけれど様々な事情で進学できなかった人もいるでしょうし、親や先生に言われてなんとなく大学に進学したって人もいるでしょう。だから大卒であるから必ず学問に価値を見いだしているとも限らないのですがね。

現代日本では高校進学率はほぼ100%です。高校に進学することに対して、強い意志を示す人はそれほど多くないでしょう。よほど何か高校に行きたくないという強い意志がある人を除いては、なんとなくの人も含めて高校に進学してしまっているんだろうと思います。でも、高校進学率がそれほど高くなかった時代においては、高校に進学する人は勉強に対してある程度の価値を見いだしていた人とみなすことはできたんではないかと思うんです。現代は大学全入時代と言われていますが、それでも大学進学率はせいぜい50%程度。大学に進学する人も進学しない人もそれなりにいる状態です。ならば、人を大ざっぱに分類するのに大卒か否かというのは使える指標ではないかと思うんですね。

理系文系とか、体育会系文化会系とか、団塊の世代とかゆとり世代とか、人はなにかと所属する集団でレッテルを貼られます。個々人がレッテル通りの人とは限らない個性を持った人であるというのは事実ですし、レッテルとは真反対の性質を持ってる人がいることも事実です。ただ、集団を観察したときに、ある程度の傾向が見て取れるなら、集団を集団として扱う場合にはレッテルも一次フィルター程度の機能はあるんじゃないだろうかと思うんです。例えば何万人もの就活生を相手にする大企業の人事担当者が、一人一人の学生と徹底的に語り合って人となりを完全に把握するというのは現実的ではないわけです。そこで一次フィルターとして学歴を用いるというのは、合理的なのではないかとも思ったりするんですね。我ながら非常に差別的なことを考えてるなとは思うんですが。就活で学歴フィルターが学歴差別だからと撤廃して全ての学生がエントリーできるようにしたとして、でも結局人事担当者が全ての学生を深堀りできないという現実は変えられないので、TOEICなどの別のフィルターが持ち出されるのがオチではないかなぁ。だからといって学歴差別をしていいわけでもないんですが。どうしたらいいのかな。

大卒者に対して期待される別のこととして、人生の早期においてモラトリアム期間を経験していることもあるかな。食べるために働くことを強要されることもなく、子供として親や先生から押さえつけられることもなく、年齢的には一応大人として社会の中で振る舞いつつ、自由に過ごせる期間をもっていたというのは人格形成に影響を与えていると思うんです。

よく「大学で学んだことなんて社会に出たら役に立たない」と言われます。一面では事実だと思います。そもそも大学は社会人の予備校ではないので、当たり前のことなんですけどね。

それはともかく、20代前半くらいだったら、大学卒業したてよりも、高卒や専門学校卒で早くに社会に出て働き始めた人の方が実務経験が多い分だけ仕事が出来るのは当たり前ですよね。20代後半以降になると、大卒かどうかとか経験年数がどうかというよりも、どのようなキャリアパスを通過してきたかの方がよほど仕事の能力に関係があります。ですので、20代前半の若者に学歴を問うのはともかく、30代以降になって学歴を云々いうのはナンセンスだというのは、それはそれで合ってるかなと思うんです。大学で学んだといっても、せいぜい若い頃の4年の期間のことであって、人生の長さに比べれば短い期間でしかありません。それはそうなんですが、ここで書いた、問題解決能力、学問に価値を認める姿勢、若いうちにモラトリアム期間を経験した、などは大人になっても人格やスキルに影響を与えてるんじゃないかなぁと思ったんです。その違いを身につけるために大学に進学するってのは、決して無駄ではないんじゃないかなぁというのが私の今の価値観なんです。

(2020/8/14追記)

追加で大学進学のメリットを一つ。それは自分よりスゴい人に出会いやすいこと。自分よりスゴい人に出会って、こいつにはかなわないって経験を若いうちにしておくのって結構重要だと思うんですね。これは言い換えれば負けを知ることとも言えるんですが。負けを知るのって、スポーツに取り組んでる子だと小学校か中学校くらいで経験するんですが、スポーツとかをやってない普通の子はなかなか経験する機会が無い。高校までは言ってしまえば狭いコミュニティから集まった集団でしか無いので、そこで出会う人もそれほどとがった人は少ない。ところが大学は広範囲から様々な人が集まってくるので、なかにはとんでもない人が混じってたりします。これ、結構大きなメリットだと思うんですね。もちろん大学以外でも負けを知る経験は出来るので、そっちでもいいんですが。ただ、スポーツもやってない普通の子って、下手したら負けを知ることなく大人になってしまって一生経験することがなかったりしかねないので、それはちょっともったいないなぁと思います。

さて、ここまで大学進学についていろいろ書いてきたわけですが、一言でまとめてしまうと、価値観って奴になるんですね。大卒の価値観と非大卒の価値観は結構違うんじゃないかなと。同じ価値観の人同士だといろいろわかりあえる部分があるので付き合いやすい。もちろん価値観の違う人と付き合って刺激を受けるというのも有意義なことでもあります。同じ価値観の人だけで閉じた集団を作っていると、それはそれで気持ち悪いですしね。また、価値観というのは大卒非大卒だけとは限りません。あくまでも一人の人を構成する価値観・要素の一つにすぎません。一人の人は様々な価値観を持っていますし、それもゼロイチとも限りません。大卒か非大卒かだけで人を判断するのってナンセンスなんですが、大ざっぱに分類するのには便利な指標でもあるのかなと。前に挙げた理系文系や体育会系分科会系と同程度くらいには人を分類するのに役に立つ指標ではないかなと思うんです。

例えば結婚相談所で結婚相手の条件を指定するときに、職業とか年収とか年齢とかに加えて学歴も指定されるわけですよね。女性から男性に対しての学歴指定は経済力の担保する面もありますが、男性から女性に対しては現実にはそれほど経済力を求められない。にもかかわらず女性の学歴を指定することもあるのは、大卒非大卒の価値観の存在を認めてるからではないかなと思います。

さて、最後に学歴差別について少し考えてみます。差別の中でも生まれもった性質による差別は特によくないと言われます。本人の努力で克服不可能な属性ですからね。人種差別や民族差別、男女差別などが該当しますかね。これらは社会的にも良くないこととされていますし、法律でも差別が禁止されています。就活で人種によって採用不採用を決めていたら大問題です。

これらの属性に比べると、学歴は本人の努力で克服が可能な属性ではあります。もちろん家庭の事情で進学出来なくてとかがあったりするわけですので一概には言えませんが、それは別問題なのでここではちょっと置いておきたいと思います。

差別はよくないが区別はよいと言われることもあります。なにをもって差別と区別をわけるかですが、ここではその判別に合理的な理由があるかどうかとしてみたいと思います。例えば大学入試は入学試験の点数で合否が決まるわけですが、大学入試を学力による差別だという人はあまり居ないでしょう。大学入試とは、大学でその教育を受けることができる学力を有するかどうかを判定するものだとすれば、学力による合否には合理性があるとみなせます。学力を満たす人は全員合格にすればいいところを人数で切ってしまうのは、大学のキャパシティの問題ですので、今後リモート講義などが発達して大学の定員が撤廃されればいいなと思いますが、それはまた別の話題ですね。

就職試験における学歴が、その企業で業務を行うのに必要な能力だというのであれば、就活におけるのは学歴区別であって学歴差別ではないことになります。が、実際のところどうなんでしょうね。実感として特定の大学卒でないと業務が遂行できないかというと、そこまでではないように思います。でも一方で学歴が全く無意味かというと、そうでもないんですよね。やっぱりいい大学出てる人は優秀な人多いですし。就活における学歴差別がよくないということで禁止されたとしたら、多分SPIのような試験で選別が行われるようになるんでしょうが、では学歴とSPIとどっちが業務遂行能力との相関が強いかというと、どっちもどっちな気もします。