陰謀論の正体

2020/4/15作成

また大きなタイトルをつけてしまいましたが、これから書くことは単に素人のおっさんがおもいついただけのことなので、その程度の事と流していただければと思います。

といういつもの予防線を張って本題を始めますが、陰謀論です。ありますよね。なんか事件や問題が起こった時、裏に巨大な組織があって糸をひいているのではないかというもの。私自身は陰謀論は基本的にあり得ないという考えなのですが、世の中には陰謀論が好きな人もたくさんいらっしゃいます。どうして陰謀論にはまってしまうのかなぁと考えたときに、こういうロジックでないかなと思いついたのがこういうことです。

つまりですね、何か事件や問題が起こる。事件は巨大なものでも、些細なものでも構いません。例えば歩いていて犬の糞を踏んだとかでも構いません。そういう事件が起きたとき、人はそこに合理的な理由を求めてしまうのではないだろうか。合理的な理由がないと不安になってしまうのではないだろうか。例えば雷が落ちると、それは不安です。でも理由として、気圧配置が不安定で積乱雲が発達していてといった理由が明らかであれば、随分と不安は和らぎます。雷自体の危険性は変わらないのですけどね。でも、なぜ雷が落ちるのかという不明による不安は和らぎます。でも実際には事件や問題において、合理的な理由がみつかるとは限りません。犬の糞を踏むのだって、不注意だったり偶然だったりするわけですが、そこに納得がいかないと、誰かが自分に犬の糞を踏ませるためにわざと犬に糞をさせたのだという考えを持ってしまう。これが陰謀論の正体ではないかなと。

しかし、少し考えればわかりますが、あなたが犬の糞を踏むように陰謀を企てるのってかなり難しいです。あなたがいつどこの道を歩くのか詳細に把握してないといけないわけですし、道の真ん中に犬の糞を置いたって避けられたらおしまいです。あなたがいつどこの道を歩くのかを完全に把握し、絶対に避けられないように絶妙に犬の糞を配置しないと、この陰謀は成立しません。つまりですね、陰謀が実際にあったとして、その陰謀って森羅万象を操るに近しいほど、ありとあらゆることを完全にコントロールしないと成り立たないんですね。そんなレアな可能性よりも、偶然に発生した事象である可能性の方がよほど高いのではないだろうかというのが、私が陰謀論があり得ないと考える理由です。

偶然以外の可能性としては、無能というのもあります。上司が嫌がらせのような指示を出す。これは自分を貶めるための陰謀だというよりも、単に上司があなたをコントロールするだけの能力を持ってない可能性の方が高いのではないでしょうか。無茶苦茶な指示に対して何か意味を見出そうとしてしまい、ありもしない陰謀を見出してしまう。一度陰謀だと思ってしまえば、ありとあらゆるものが陰謀論を裏付けるように見えてしまうと。

もう一つ考えないといけないのは、事件や問題が起こっていることは事実だとして、陰謀論というのは自分が考える予想でしかないということです。ところが陰謀論にはまっている人というのは、この事実と予想の区別がつかず、自分の予想に過ぎない陰謀論を事実であると信じ込んでしまう。そんな馬鹿な人がいるんだろうかと思うかもしれませんが、ネットニュースのコメント欄などを見ればそんな人はいっぱいいますよね。政治でも経済でもスポーツでも、一家言をもっているのは結構なことなのですが、自分の考えを事実であるとして論じてしまっている人でいっぱいです。意見を述べるのはいいと思うんですが、そこで事実であることと、自分が想像したことの区別はつけておきたいなと思います。まあ、この記事自体が私の想像の産物でしかないので、私自身に返ってくるブーメランなんですけどね。

だんだん話がずれていくんですが、陰謀論というか想像で叩くというのも時には必要かなという気もしたりもします。想像でしかないけれど、人は知識や経験があると想像することも荒唐無稽とは限らず、それなりに的を得た想像になることもあります。一人の想像では不十分でも、多くの人が様々な想像を巡らせて意見を交わすことで、より精度の高い推測になるかもしれない。

事実と想像を分けるというのは大切なことではありますが、事実のみを扱い想像部分については判断を保留にするというのは、それだけでは不十分なこともあります。世論は、大半はテレビを見ながらのつぶやきから成るわけですが、そこで想像による部分が全くなかったら、いつまでたっても世論は動き出しません。間違った情報による世論は問題ですが、正しい情報からそれなりに妥当な想像によって導き出された世論はいいのではないのか。いや、そこで正しいとか妥当だとかは誰が判断するんだって問題はもちろんあるんですけれども。

事実が判明するまで判断は保留すると言っても、問題によっては事実は永遠に分からないものもある。ならばその事件に対しては誰も意見を言ってはいけないのかというと、それも違うような気がする。もちろん新たな事実が判明したら、誤った想像に基づく部分は訂正する必要はありますけどね。

炎上することでいいこともあるのかなという仮説で、芸人さんの反社への闇営業問題を取り上げました。反社への闇営業は多分事実だとは思いますが、そこに闇営業に行った芸人さんが反社だと知っていたかどうかは不明です。だって芸人さんはたとえ知っていたとしても知らなかったと言うしかありませんからね。でもそれなりに世間がわかった人であれば、知らなかったという言い訳が通るとは思わないわけで、知っていたはずだという前提で叩くわけです。刑事裁判だったら想像で有罪とするのは問題ですが、世論としてはそれもありなのかな。そこで事実のみを取り扱っていると世論はなりたたない。想像による私刑はそれはそれで問題なんで、果たしてそれでよかったのか正直よくわからないんですけどね。闇営業事件では、関わった大半の芸人さんはテレビにも復帰していますが、宮迫氏のみはいまだに復帰できていません。それがいいことなのか悪いことなのか。世論からするといいことなんだろうとは思いますが、これが冤罪だったら罪深い話だし。

ということで、例によってですが長々と書いてきましたが、結論としてなんなんだってのが整理できてないんですけどね。とりあえず考えてることを吐き出して一旦ここで終了にします。また整理出来たら追記します。

(2020/5/3追記)

自分で書いたことに自分で感心してしまってるんですが、事実と想像を分けるというのはかなり大切なことではないかなという気がします。想像もしくは推測ですね。

事実がある。その背景にはこんな事情があったのではないかと推測する。その推測がうまく事実を説明できてると、気持ちいいんですよね。でもそれは危うい気持ちよさでもある。気持ちよさのあまり、推測を事実と思い込んでしまったら。

しかし、難しい点もあります。一つは事実を事実と確認することの困難さ。一人の人間が自力で事実と確認できる範囲というのはそれほど広くありません。多くはマスコミなどの伝聞情報を得るしかありません。アポロの月面着陸はフェイクだという説がありますが、アポロの月面着陸を事実だと確認できる人はNASAの関係者などごくわずかしかいません。ほとんどの人は伝聞情報でしか知りえません。だからって月面着陸がフェイクであると決まったわけでもありませんけどね。

事実のふりをしたデマというのもあります。関東大震災で朝鮮人が井戸に毒を入れたというデマは事実として広まりました。だからってデマを信じた人を擁護するわけでもないのですが、デマが事実のふりをしてやってくるわけですね。事実と推測の区別を付けられないコメンテーターがワイドショーで自説を事実として語ってしまったら、視聴者はそれをデマと見分けられるでしょうか。

なお、推測してはいけないと言いたいわけではないです。推測をもとに批判してはいけないわけでもありません。どっちもしてもいいんです。ただ、事実をもとに批判しているのか、推測をもとに批判しているのかという区別はつけておきたいということなんです。


あおやぎのさいと2.0 トドの日記2.0