希死念慮はグラデーションを描くのではないか

2020/2/24作成

穏やかでない話題で申し訳ないですが、自殺と希死念慮の話です。

ある人が自殺した場合、残された人は死にたくなるほど辛かったのだと判断します。その反対として、生きているのなら大したことではないのだろうと判断します。つまり、辛さから死を選ぶ場合、一定のレベルまで希死念慮が高まれば自殺という結果に結びつくのではないかという考え方です。

でも実際にはそうではないと思うんですよ。まだ希死念慮が軽い段階で、なんとなく死んでみようかなと思って自殺の振りだけしようとしたのに、誤って自殺を実行してしまって、運悪く死んでしまったということもあり得ます。実質的に事故死なわけですが、状況からして自殺にしか見えなくなってしまい、残された周囲の人は死ぬほど辛かったのだと判断してしまう。実際には、そこまで追い詰められていたわけでもないのに。

逆に、もうどうしても死にたいと思って自殺を実行したのに、運悪くというか運良くというか生き残ってしまった。その自殺の行為を誰にも見られてなかった場合、周囲には自殺をしたことがわかりません。死にたいと思うほど追い詰められているのに、周囲からは大したことはないんだと思われてしまう。

自殺は結果として生きているか死んでいるかという0か1かの状態しかありません。一方、希死念慮は、なんとなく死んでみるのもいいかなという淡い考えの段階から、もう絶対に生きていたくないという強い思い込みまで、無限段階のグラデーションを描きます。この希死念慮が一定の閾値を超えたら自殺という結果に結びつくのだと考えてしまいますが、実際には違うのではないだろうか。希死念慮の強さと自殺の実行には強い相関関係があるとは思いますが、希死念慮が強くても自殺してない場合もあるし、逆に希死念慮が弱かったのに自殺してしまう場合もあるんじゃないかと思うんです。

結論として何が言いたいかというと、周囲の人は自殺という結果で判断してしまうけど、それはその人の心を正確には推し量ってないのではないかということ。まだ生きてるからそんなに深刻な事態ではないんだと思ってしまってはいけないのではないかなということです。なお、当たり前のことですが、自殺してしまった人のことを、実はなんちゃってだったんだろうと貶めたいわけではありません。