間違ってる人に間違ってると指摘してもしょうがないんじゃないかという仮説

2019/9/10作成

日々、いろんな事件が起きてニュースになっています。例えば最近では子供を虐待の上に殺してしまった被告の裁判が行われていてニュースになっています。被告は虐待ではなくて、しつけのつもりだったと言っているそうです。

ここでわざわざ書くまでもないことですが、命をもって償わなければならないようなしつけなんてものは存在しません。実際にはしつけなんてものではなく、虐待、より正確に言えば殺人が行われたのです。

というのは考えるまでもない自明なことではあるんですが、一方でその自明なことを、実際に虐待しているときの被告に指摘してもしょうがなかったんではないだろうか。ということを考えたのでメモしておきます。

被告はしつけのつもりだったと言っています。半分は裁判戦略もあるでしょう。殺すつもりはなかった。子供のためを思っての行動が結果的に過失になってしまっただけだと主張することで刑の軽減を狙っているのは間違いないでしょう。ひどい話ではありますが、法治国家においてはどんな重罪を犯した者でも裁判を受ける権利はありますし、裁判では自己の利益が最大になるようにふるまうことが出来ますから、そうした利己的な主張をすることは間違っていません。

半分はと書きましたが、もう半分は本当に本心からしつけだと思ってたのではないかということです。実際はどうかはわかりませんけどね。あくまでも私の想像の話ですが。

そもそも人間の行動原理の大半は正義に基づいているのではないかと思うんですよ。自分が正しいと思っていることを行う。間違ってるとわかってることをしている人ってそんなに多くないと思うんですね。あおり運転をしてるドライバーは未熟なドライバーを教育してやろうとしてあおっているし、店員にクレームをつけて土下座させてる客は未熟な店員を教育して一人前の店員に成長させ自分と同じような不愉快な目にあう客がいなくなるようにと思って土下座を強要してる。パワハラ上司は部下を成長させるためにパワハラしているし、いじめをしている人は相手が喜んでいるとおもっていじめている。この手の話で最も醜悪だなと私が思ったのは、痴漢をする人って、触って欲しくてしょうがない淫乱な女性を助けるために仕方なく触ってあげているそうなんです。吐き気がしそうなくらい気持ち悪い話ですね。

ここに挙げたような正義は、もちろん全部間違ってますし、そんな正義に基づいて行われる行動は全て犯罪であって罰せられるべきものです。でも、犯罪を犯してる本人は自分は正しいと思って、正義に基づいて行動してるのではないかという仮説です。

ここで勘違いして欲しくないのは、犯罪者が犯罪者なりの正義に基づいて行動しているから認めろというわけではないんです。罪を追求するなってことでももちろんありません。犯罪は犯罪です。ただ、犯罪であると指摘しても、犯罪者本人には伝わらないんじゃないかってことなんです。

彼ら犯罪者は犯罪行為を止めろと言われても止めません。だって自分は正しいと思ってますから。正しいことをしているのに、なんでやめなければならないんだと思うわけですね。それは犯罪だと指摘しても、いやこれは正犠だと反論されてしまう。犯罪を指摘しても止めることはできない。犯罪を止めるためには、指摘するだけではなく、さらに別の工夫が必要なのではないかというのがこの記事での主張なんです。

もう一つ思うのは、自らの過ちを認めるのは非常に難しいという性質のことです。犯罪者自身も、内心ではこれは間違ってるんじゃないかなと思っている場合もあるでしょう。でも、それを認めるのは難しい。冒頭の児童虐待死の場合、昨日は強く殴りすぎてしまったなと思う日もあったかもしれません。でもそこで今日は昨日より弱めに殴ったり、殴るのをやめてしまったとしたら、自らのしつけであるという論理を嘘だと認めてしまうことになる。しつけであるという論理を守るためには今日は昨日よりも強く殴らなければならない。そういう自爆に捕らわれてしまっていたのではないかなと想像するのです。

よく犯罪者が捕まったときに、これで犯罪をやめることが出来るとホッとするということがあります。自分で内心間違っているとわかっていても、それを止めることができないというのは、実際に大いにあるのではないかと思います。それは犯罪者だけの特有の弱さではなく、人間誰しも持っている弱さではないかと思います。自分が間違っているとき、その間違いを指摘されて即座に認めて改めることが出来る人って、結構少ないと思います。常にそのような態度がとれる人って、ブッダやキリストクラスの聖人だと思いますね。だから凡人はそうそう自分の間違いを認めることは出来ない。

だからどうしたらいいなんて結論は残念ながらありません。犯罪者に対して、犯罪だと指摘したところで、それだけでは犯罪者に届かないのではないかという仮説です。犯罪者に届けるためには、もっと別の方法を考えないといけないなという話です。

(2019/9/11追記)

どうにも文章がうまく整理できてないですね。だらだら長いわりには何が言いたいのかはっきりしない。

改めて論旨を整理すると、「悪いことをしてる人もその人の正義に基づいていることがあるので、悪いことだと指摘しても通じないかもしれない」「自分で自分のことが間違っていると認めるのは非常に難しい」ということですかね。

失言した大臣とか、世間で様々問題になる人がいます。「謝ったら死ぬんか」と揶揄されるほど、なかなか自らの過ちを認めずに泥沼にはまっていってしまいます。はたから見てると、素直に間違いを認めて謝ってしまえばいいのにと思うけど、多分当人にはそれは非常に難しいことなのではないかな。

こうした事件に対してネットではド正論のコメントがついたりします。確かにド正論で正しいのですが、それは当人ではない第三者だから言えることだったりはしないかなと。当事者になったとき、そのド正論が実践できるかというと、かなり難しいんじゃないかという気がします。

繰り返しますが、だから悪い人を認めろというわけではなく、正論をぶつければそれで解決するわけではないということを考えたいということなんです。なんとなく、正しい根拠を持って指摘すれば相手はすぐに非を認めて考えを改めてくれると思いがちですが、実際にはそれは難しい。ニセ科学にはまってる人とかカルト宗教にはまってる人とか、そんな感じですよね。オレオレ詐欺にだまされてる人に気が付いても、それ詐欺ですよと言ったくらいで振り込みを止めるとも思えない。そういう感じのお話です。


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