障害と才能の境界はどこにあるのか

2015/12/6作成

障害って実は絶対的に決まるものではなく、社会的に決まるものではないかなぁと思う。医学的な定義ってのもあるだろうし、致死性の高い障害の場合は絶対的に決まるものもあるだろうけれど。私の姉は先天的に心臓障害があったために4ヶ月しか生きられなかった。治療しても、その時点での医療技術では救えなくて死ぬしかないという障害だったわけだ。それは絶対的障害と言ってもいいかもしれない。でも糖尿病は放置したら死ぬけど、透析を受ければ生きていける。この場合医学的にも法律的にも障害者には違いないだろうけれど、社会的には障害と見なさなくても問題はないのではないだろうか。いや、障害者としての手当はもちろん必要なんだけど、制限は受けるものの一般的な社会生活を送ることは出来ますよねって意味でです。

100メートルを10秒以内で走れないことを障害と定義することも可能だと思います。その場合はもちろん私も障害者です。荒唐無稽な話のようですが、原始時代で肉食獣から逃げ回らなければならない環境であれば、走るのが遅いのは致命的障害でしょう。現代において足に障害があって車椅子を用いている方が障害者であるのは、社会がバリアフリーになっていないからです。完全にバリアフリーな社会であれば、車椅子の方は障害者ではないでしょう。だからスロープやエレベーターをあちこちに設置しましょうというのはそれはそれで大切なのですが、社会の切り取り方を変えればそもそも車椅子はバリアにすらなっていない。例えばネット社会。五体不満足で有名な乙武洋匡氏はブログやTwitterで発信したり議論したりしていますが、それを読む人も議論相手もそこにバリアは感じていないでしょう。もちろん乙武氏自身も。ネット社会においては車椅子は障害でもなんでもないのです。

「障害は不便だけど不幸ではない」という言葉があって、これはすごい考え方だと思います。障害は一般的にマイナスのことだと考えられていますが、実はゼロだよと言っているのです。革命的発見と言っていいと思いますが、ここで私は「リアル」の「これはこいつの才能だ」という台詞を付け加えたい。車椅子は障害ではなくて才能だと。マイナスではなくプラスだと。バスケットのコートにおいて、車椅子は才能の一つだと言っているのです。つまり、それが障害であるか才能であるかは社会が決めることであって、絶対的に決まることではないということだと思うのです。

話は変わりますが、発達障害のある方は記憶力や暗算能力などで非凡な力を発揮することがあるそうです。極端な例としてはアインシュタインが発達障害だったのではないかという説もあるそうです。そこまでではなくても、とある工場では作業の速度や正確性において健常とされる方は発達障害の方に全くかなわないということがあるそうです。この場合は発達障害がプラスに作用しているわけではないですが、工場の業務においてはマイナスとしては働いておらずゼロ状態。作業の緻密性などにおいてプラスの能力を発揮しているということになります。

軽度なものも含めると色盲である実は人はかなり多いという話もあるそうです。でも現代社会においては、色盲であることはそこまで極端に障害にはなっていない。一番影響のありそうな交通信号だってそもそも色盲に配慮した配色になっていますし、点灯位置を知っていれば不便もありません。

結局なにが言いたいかというと、障害というとマイナスと捕らえてしまい勝ちですが、それを障害とするかどうかは絶対的に決まるものではなくて社会や環境によって変わってくるということです。その人の生活する範囲において問題がないのであれば、それはもはや障害ではないでしょう。また、自分が健常であると思いこんでいる人も、実は社会や環境が変われば障害持ちになることもあり得るのです。100メートル走のようにですね。もちろんバリアを取り除くのにはコストがかかるのですが、コストがかかるからとバリア除去に目をつぶっていると、福祉のコストが増大する一方です。ある程度のコストをかけてバリアを取り除けば、障害者として社会から事実上排除さてている人も社会に参加できるようになる。上述の工場のように優秀な工員として働くことができれば、福祉コストをおさえることもできる。

また、障害はなにも先天的なものに限りません。現在健常者とされている人も病気や怪我で後天的に障害者となることもあり得ます。そうなったときに、残りの人生は福祉に頼ってただ生きるだけの人生を送りたいのか。それともバリアフリーの社会において、引き続き社会に関わって生きていきたいのか。そのどちらを選択しますかという問題でもあると思います。障害者なんて出生前診断で見つけて中絶してしまえという思想の方は、自分自身が障害者になる可能性を想像できないのでしょう。障害をもつ可能性は誰にでもあって、それをマイナスにするかゼロにするかプラスにするかは、社会によって決まるのにですね。

(2017/11/11追記)

私なんかが書く文章に目新しいことなんて何一つ無い」の例がまた見つかりました。ここで書いたようなことって「ハンター・ファーマー仮説」というので提唱されてるんですね。だから学のない無知はいかんのだよな。ほんとに。

「ハンター・ファーマー仮説」というのは、現代では発達障害として分類されているものは、実は狩猟民族の特性であって、それが単に農耕民族の習性にあってないだけではないかということ。まさに障害とは社会が規定しているという意味。

そういえば「ぼくたちの洗脳社会(ISBN:978-4022569288)」には、学校とは工場労働者を養成するための機関であるというようなことが書いてありました。確かに、工場労働者には毎日決まった時間に同じ場所に集合し、与えられた役割をその通りに黙々とこなすことが求められます。自分勝手に歩き回ったり、個人的な思いつきで行動したりということでは工場は成り立ちませんね。より現代的には工場労働者ではなくオフィスワーカーかもしれませんが、求められる資質はそれほど大きくは違いはないでしょう。

発達障害とは単に工場労働者もしくはオフィスワーカーに求められる資質に当てはまらないというだけで、他の職業であれば全く問題にならなかったり、もしくはハンターの様に好ましい資質であったりもするという考え方ですね。