デジタル技術が葬る都市の匿名性

2014/3/13作成

「明日のバカッターは、あなたや私であるということ」(http://meerkat00.hatenadiary.jp/entry/20140201/1391216164)

大雑把に要約すると、知り合いが誰も居ないところで何気なく振る舞ったことを、たまたま通りがかった人が撮影して画像をソーシャルメディアにアップする。そして、その画像を知り合いが見つけて特定するという可能性についてです。自分は気づいてなかった事象なので正直驚愕しました。

バイト先で冷蔵庫に入った写真をソーシャルメディアにアップして自爆する人が相次ぎましたが、これは自業自得で片づけることが出来ます。ソーシャルメディアのリスクを認識するのはなかなか難しく、本来はそれだけのリテラシーが無い人にまでソーシャルメディアは容易に扱えるところに存在してしまっているという点で同情する余地は十分にはありますが。

しかし、リンク先の事象はこの文脈では自業自得ではありません。自分できちんと気をつけていたとしてもソーシャルメディアで最悪人生を終わらせられてしまう可能性があるわけです。自己責任論者にとっても意外な現実ではないでしょうか。こうなってみると、素顔で外出すること自体がリテラシー不足と言われてしまうのかもしれません。外出時はみなガイ・フォークスのマスクをしなければいけない時代なのかもしれません。警察などが街中に監視カメラを設置していて、それに対してプライバシーの侵害という意見もあるわけですが、こうなってくると大衆が大衆を監視しているという別のプライバシー侵害も存在するような気がします。

ただ、もう少し考えてみると、これは実はそれほど特異な話でもないのかもしれません。このようなことは村社会では当たり前のことですから。住民全員がお互いに顔見知りである村社会では、村の中で誰かが何かをしても、翌日には村中の全員がそれを知っています。それを監視社会という人もいるかもしれません。実際、近代以降においてそうした村社会を嫌って都会に移住したという人は多数居ます。都会では通りすがりの人は皆見知らぬ他人です。逆に言えば、自分は周囲の人から匿名の存在で居られるわけです。そこで何か問題を起こしても、その場を離れれば素知らぬ顔をすることが出来るのです。つまり、都市とは匿名性を持った社会なわけです。

村社会のお互いが全員顔見知りというのは、村という共同体がそれなりに小さいからこそ成り立つことです。何万人もの人の顔と名前を覚えることは、常人には不可能ですからね。都市の匿名性とは、その顔と名前を覚える限界を超えた人数が集まることで生み出したというわけです。しかし、ここで人類はデジタルデバイスとソーシャルメディアの助けによって、何万人もの顔と名前を識別することが出来るようになった。つまりはそういうことではないかと思います。ある意味、集合知の力で都市の匿名性を葬り去ったとも言えるかと思います。集合知の可能性を信じる人間としては少々残念な作用ではありますが、集合知とて技術の一つ。技術自体には善悪はなく、それがプラスに作用するかマイナスに作用するかは、それを使う人間次第なことには違いがありません。また、匿名性が失われることがマイナスであるとも限りません。

ともあれ、そういう時代になったのだなぁと思った次第であります。