「大阪学」大谷 晃一

2007/9/25作成

違法駐車やお笑いから、古代からの歴史、西鶴や近松といった文学などにより大阪人の反権威、合理性、本音重視といったメンタリティを説明する。まあ、それ自体は面白いことは面白い。広い範囲の知見を並べているのはそれだけでも面白いし、一般に大阪弁と言われているものが河内弁をベースにさらにお笑いに特化させたものであるというのは、似たような事を考えた事があるだけに我が意を得たりとも思う。

一方、不満がないでもない。大阪の特徴を述べるにあたって東京と比較するというのは構わないのだが、その結論として「だから大阪の方が優れている」とするのはやり過ぎだろう。そこで優劣を言ってしまっては主観の話しになって学問ではなくなってしまう。それに、大阪人である筆者が大阪を褒めたところで、それじゃ単なる身贔屓に過ぎない。むしろ、そうして東京をおとしめようとする姿勢は、大阪人の典型的な東京コンプレックスの現れとしか見れなくなってしまう。

ちなみに私は大阪のお隣の神戸で生まれ育ち18年過ごし、その後大阪で10年過ごしたあと、東京に引っ越して10年である。自分なりに大阪も東京も両方それなりに分かるつもりでいるんだが、その私の意見としては、東京は筆者が言うように大阪を意識なんて全くしてない。都市としての東京がライバル意識を持っているとしたら、その相手はニューヨークやロンドンなどであろう。確かに江戸時代であれば江戸と大坂は政治と経済のそれぞれの中心地として日本の二大都市であった。しかし明治以降経済の中心も東京に移り、大阪は今では単なる地域の中核都市でしかない。交通と情報の発達によってグローバリゼーションが進んだ結果、国内での都市の競争は終わり、国家間の競争の時代に移っているのである。外国の例で言えばオーストラリア。1901年の独立当時、首都の座を二大都市であるシドニーとメルボルンで争った結果、その中間地点にキャンベラという新都市を作る事で決着した。しかし、それから100年。どういう理由でかは知らないが、オーストラリア第一の都市と言えばシドニーであり、メルボルンは州都の地位に落ち込んでしまっている。大阪はまさにこのメルボルンと同じ境遇であろう。そういう時代において「大阪は東京のライバルとして」とか「東京は大阪を常に意識している」なんてのは全くもって妄想に過ぎないと思う。そうした妄想を生み出す東京コンプレックスが大阪人の最大のメンタリティであるという事を本書全体の行間を通して表しているという意味では、これはまさに大阪学であると言えるかもしれない。

最後に本筋とは全く関係ないけど、ちょっと看過できなかったこと。巻末の難波利三氏による解説のなかに「子供を家に閉じ込めて自閉症になった」とある。よくあるけれど、見過ごせない誤解。自閉症は先天的な脳の機能障碍であって、後天的な環境によって発病するものではない。