人生とはなんなのだろうか

2009/12/4作成

最近、立て続けに知人がお父様を亡くされるということがあり、少々凹んでます。私が凹むことではないけれど。

で、そうしたやりとりのなかで、とある人がポツリと「人生ってなんなんでしょうね」ということを仰っていたのを読んで、少し思っていたことを書きます。

私は今年の2月に娘が生まれて、3月に祖母を亡くしました。人の誕生と死という事柄を短期間に、しかも誕生 →死という順に見て、なんというか人生を理解したような気がしました。いや、もちろん私ごときが人生なんてたいそうなものを理解できるはずがかりませんので、そう思ったのは誤解・思い上がりには間違いないんですが、とりあえずそのとき思ったのは次のようなことです。

まず誕生について。娘が生まれました。立会い出産だったので、誕生の瞬間にも立ち会いました。私と妻という、父と母の間に生まれました。医師や助産士さんや看護士さんなど、医療スタッフにも囲まれて産まれました。みなが、その誕生を喜びました。そして、生まれた子が健やかでありますように、幸せでありますようにと願いました。これは人の誕生において普遍的なことでしょう。もちろん、中には望まれずに産まれてくる命もあるでしょうけれど。

ということはですね、祖母も同じように産まれたんだろうと想像するんですよ。約100年前、同じように父と母の間に産まれたのでしょう。その頃は自宅で産むのが一般的だったでしょうから、多分自宅で産婆さんにとりあげてもらったんではないでしょうか。そして、私やみかんが思ったのと同じように、健やかでありますように、幸せでありますようにと願われたのだと思います。

それから祖母の人生は始まります。私は晩年の祖母しか知りませんから、若い頃がどうだったかは分かりませんが、一般論として、親が願ったほどには健やかでも幸せでもなかったのではないかと思います。山あり谷ありが人生ですし。それに、祖母は当然のことながら戦争を経験していますから、戦中・戦後の混乱期を幼子を抱えて過ごしたのは大変なことだったろうと思います。

それでも、夫とめぐり合い、子供に恵まれ、そして孫やひ孫に囲まれたわけです。夫を看取り、子供には先立たれることがなかったという意味では、恵まれていたのではないかと思います。

そうして平成21年、産まれたときには居なかった人に囲まれて、産まれたのとは違う場所で生涯を閉じたわけです。

まだ0歳の娘にこのようなことを書くのは顰蹙ですが、娘もいずれは死ぬわけです。親は、健やかであるように幸せであるようにと願ってはいますが、おそらくは全てが思い通りにはならないとは思います。様々なことを経験し、山あり谷ありの人生を送り、そしていつになるかはわかりませんが、産まれたときとは違う人に囲まれて生涯を終えるわけです。

人というのは、このように産まれてきて、このように死んでいくんだなぁというのを、短期間に誕生と死という二つの事柄に触れて感じました。こうして文章に書き出してみると、とても当たり前のことでしかないのですが、しかしそれを実体験から感じ取れたのは、いい経験だったなぁと思います。