心理的安全性とか

2022/8/4作成

Googleのレポートで有名になった心理的安全性ってあるじゃないですか。主に職場での話です。

人によって心理的安全性という言葉から受ける意味もだいぶ幅があるようで、そもそもパワハラを受けないとかいうレベルから、とにかくみんな仲良く居心地よくということとか、ハードな言い合いになってもお互いの信頼を損なわないとかいろいろありますわね。でまあ、ここで書きたいのは最近自分で思ったことでして、上記のハードな言い合いでも信頼損なわないに近いけど、それともちょっと違うなぁというところです。とりあえず書き出してみます。

それは何かというと、相互の信頼感が条件付きではないことかなということです。私の長所と上司からの見た目で書いたように、私はわりと思いついたことをその場ですぐに口に出してしまうタイプです。有用なアイデアだけを思いつければいいんですが、中には愚にもつかないことも思いつきます。むしろ後者の方が比率としては圧倒的に多い。

愚にもつかないことを発言すると上司や同僚からの信頼が下がっていくんですね。当たり前と言えば当たり前ですが。でもこれって言いかえれば、有能であることが信頼感を生んでいるということでもある。仕事なんで言葉にすればとても当たり前なんですが、でもそれって100%ミスしないマシンのような有能性を求めているとも言えますよね。人間、っていうと主語が大きくなっちゃいますので言い換えると、私はそんな完ぺきな人間ではありません。当然ミスします。

ミスして叱られるのは当然なんですが、ミスして信頼を失って職場に居場所がなくなっていくのは辛い。職能を満たせないくらい無能なら排除されるのは仕方ないけれど、それなりに仕事はなんとかこなせてるのに、へんてこ発言したら信頼を失ってしまうのは厳しいなぁと思うんですよ。甘えた考えかもしれませんが。

ちょっと話がそれますが、自分が親になって感じるのは、親の愛情は無償だなぁと思います。そりゃま例外はありますよ。毒親だって虐待親だって世間にはいくらでもいますから、全ての親の愛情が無条件だとは言いません。でも、無償の愛情もありますよねってことです。

無償の愛情ってのは「かわいいから」とか「勉強が出来るから」とか「スポーツが得意だから」とかの条件付きではない愛情ってことです。かわいくなくても、勉強が出来なくても、スポーツが不得意でも、ただその存在だけで愛せる。それが親の無償の愛かなと思います。

話を職場に戻します。上司や同僚から無償の愛が欲しいわけではありません。それは流石に重たすぎます。ではなくて、職場の仲間としては無条件で認められると、居心地がいいんじゃないかなぁと思うんですよね。多分ですが、昭和型企業だとそういう傾向があったんじゃないかと思うんですよ。「釣りバカ日誌」のハマちゃんは会社員としては無能で毎日叱られてばかりだけど、職場の仲間としてはみんなに認められている。って、実は原作も映画も見たこと無いので違ってたらすいません。

それに対して、平成・令和型の企業だと、有能であるかどうかが信頼のバロメータになる。企業は利益を追求する場所ですから、有能であることを求めるのは合理的なんだけども、合理的を追求しすぎると、完ぺきではない人間にとって居心地悪くなりますよねぇって話です。

少々ミスしてもこの人たちは自分のことを見捨てないでくれると思えれば、安心してチャレンジすることも出来ますよね。こんなこと言ったら変に思われないだろうかという心配がなければ、安心して奇抜なアイデアを出すことも出来る。そういう安心感の中で仕事が出来るとよいなぁと思うんですが、現実的にはそういう職場ってなかなか巡り合えないなというのが個人的な実感です。まあ、企業にも上司や同僚にも、そんな受容の余裕なくなってますからね。