葬式仏教の衰退

2010/1/25作成

最近、有名人が亡くなったというニュースでよくあるのが「葬儀は身内のみで行い、後日お別れの会を開催する」というパターン。

お別れの会、って何なんでしょうね。出席したことがないから、ニュースでやっているのを断片的に観たことがある程度ですが、そこから判断するに、遺影が飾ってあって献花して弔辞を読んでと、普通のお葬式とたいして変わらないスタイルのような気がします。違いがあるとすれば、遺体がそこに無いということと、お坊さんのお経がないことくらいでしょうか。そう。お別れの会だとお坊さんの出番はないんですよね。いや、お坊さんを呼ぶ場合もあるかもしれないけど、そうでないパターンの方が多いんじゃないかと思います。

それでもお葬式は別でやっているわけだから、お坊さんの仕事が無くなったわけではないのですが、身内だけと規模が小さくなっているから、お布施も減っているんではないかと想像します。つまり、お坊さんの仕事が減っているわけですね。

それでも、老人世代はまだちゃんとお葬式も法事もやるというスタイルが一般的だと思います。しかし、それより下の世代になると、更に話が変わってくるんじゃないかと想像します。つまり私の世代とかですね。

私個人の考えなんで、世代一般の話ではないのですが、私自身としては自分が死んだ後に葬式も法事もして要らないと思ってます。当然墓も要りません。そんなの残したって、残された人にとって面倒なだけじゃないですか。せいぜい遺影を残しておいて、たまーに引っ張り出してきて眺めて思い出してくれれば、それで十分と思います。

こういう私の考えは珍しいかもしれませんが、他に絶対無いというわけではないと思います。ていうか、これから増えていく考えではないかと思うんです。まあ、私の勝手な想像ですが。

もし、私のような考え方の人が増えていったとしたら、お坊さんの仕事は更に減ることになります。ていうか、私の考えではお坊さんが出てくる場面は無いわけですから、仕事が無くなってしまいますね。

それ以外にも、転居や代替わりを機会に菩提寺との縁が切れるということもよくありますしね。

いきなり結論ですが、現世代はまだしも次世代か次々世代くらいになると、いわゆる葬式仏教はかなり衰退するのではないかと思います。お寺の数もお坊さんの数も、多分激減するんじゃないでしょうか。お坊さんにとってはまさに死活問題ですが、それ以外の人にとっては別にどうでもいいことです。冷たい言い方ですが。

だいたい、葬式仏教というスタイル自体が江戸時代に幕府の政策で発生したものですから、それほど歴史があるものでも、必然性があるものでもありません。幕府が滅び、明治政府も滅んだ今、信教の自由を保証する憲法のもとでは、特定の宗教だけが庇護されるというわけにはいかなくなるでしょう。

大体、仏教自体だって他の宗教と同じく、基本的には生者のための宗教なわけです。葬式仏教という死者の宗教であるほうが、ある意味異常なわけですから、葬式仏教の衰退は仏教が本来の姿に戻ると言えるのかもしれません。

この辺、日本人の死生観の変遷とも絡んでくる話だと思います。その辺もふくめて、色々考えてみたいテーマだなと思います。