「マンガ 老荘の思想」蔡 志忠

2007/11/5作成

私という人間は全くもって教養の無い人間で、老子荘子と言っても名前を聞いた事があるくらいで、実際にどんな思想を持っていたか全く知りません。多少なりともそれを知れればなぁということと、マンガになっているなら読みやすいだろうかということでこの本を手に取りました。

が、読んでみて結果的にはいまいち。マンガだから読みやすいかというと残念ながらそうではない。実際には内容のほとんどが文字で記され絵の部分は挿絵に近い状態なので、結局は文章を読まなきゃしょうがない。しかし、一つのエピソードに1ページか2ページくらいしかないのでかなり端折って書かれていて、そこから内容を読み取るのはかなり難しい。元々、老荘の思想にある程度知識がある人が読むといいのかもしれないけど、全くの初心者にはこれでは辛かった。ただ、そのなかでも多少なりとも自分なりに読み取れたところをいくつかメモ。

非常に大雑把にとらえると老荘の思想というのは個人主義なんだろうか。個人としていかに完成するかが主眼で集団や社会に対してはあまり興味が無いようである。解説文によれば孔子に対するアンチテーゼという面もあったそうなので、政治学/社会学的な面のある儒学に対して個人主義ということなんだろうか。別にそういう考え方が悪いわけではないが、孔子の思想に対して小人の思想に思える。

荘子は特にこの傾向が強いようで、その内容はまるで仙人になる方法を説いているかのようだ。人間の持つ欲を捨てて生きれば楽に楽しく生きられるのにというのは、まあ分からない考え方でもないんだが、それでいいのかとも思う。万人が老荘のような人になれば世界が理想郷になるという思想なのかな。自我の無い酔人や嬰児が理想とまで言ってしまうと、人間の知恵の否定になりはしないか。「あっかんべェ一休」で一休が養叟から「解脱した者が獣と変わらぬではないか」と言われていたが、まさにそれだ。仏教の範疇で考えるならまだ理解することは出来る。人間の欲が罪を犯すという仏教からすれば、ある意味自我は無い方がいいとも言える。だが、老荘は仏教とは関係ないし、輪廻を否定しあくまでも現世についての思想に思えるんだが。その点、老子はまだ多少は国家のあるべき姿も説いている分だけ俗であるとも言えようか。

一番解釈が気になるのはゴンズイの木/土地神の木のエピソード。役に立たない木だから切り倒されずに済み木として長らえたというのは処世術としてはありだとは思うけど、万人がそれでいいのか。たとえ切り倒されようとも役に立つ事を望むのは行けない事か?そうして名を残す事を希望する人だってたくさん居るだろう。また、役に立つ故に切り倒される木もあるからこそ世の中が成り立っているんじゃないだろうか。そうした人々の犠牲の上に、老荘のみが安穏とした生涯をおくるとしたら、それはひどい話のような気がする。