「道交法の謎」高山 俊吉

2007/8/18作成

道交法。特に警察が主に取り締まりを行っている、駐車違反、速度超過、飲酒運転が科学的な合理性に基づかない規制になっていることを説く。反則金収入が警察の自由に使えるお金であるため、規制のための規制と化してしまっているのではないかと。その指摘自体はもっともなことだし、筆者の指摘する点が改善されるといいなと思う。その方法として、反則金収入を特殊財源ではなく一般財源としてしまうのはいい方法だと思うし。

本書の主張は納得して肯定したうえで、さらに本書で書かれていない自動車の凶器性という異常があると個人的に思う。本書でも自動車事故の加害者の量刑について言及があるけれど、その本質は自動車による力のレバレッジにあると思う。

自動車事故における加害者の過失原因としては、わき見、居眠り、速度超過、飲酒といったところだろう。例えば道を歩いていてわき見をして人にぶつかったとする。相手はひどくてもしりもちをつくくらいでたいていは怪我もしないだろう。要するに自動車事故の過失というのはこの例と同じだけの過失でしかないわけだ。しかし、自動車と言う凶器を利用することによって被害者は容易に死亡する。過失内容は変わらないのに。この事件を刑事裁判で裁くときに、過失内容に着目して裁くと、結果の重大さに対して非常に軽い量刑だという感想が生まれるんではないだろうか。

ではどうすればいいか。例えば道路工事でユンボを使うとき、その回りを柵でかこって警備員を立たせなければならない。これはユンボが非常に危険だからである。しかし、殺傷能力で言えばユンボと大差ない自動車はこうした安全措置がまったくとられずに走っている。こうして思うと、産業史では悪法として名高いイギリスの赤旗法にも一定の合理性もあるような気もせんでもない。実際にはやはり非合理的だけれど。赤旗法は意味がないとして、必要なのは人車分離交通の実現だろう。凶器である自動車が歩行者のすぐ横を走っていて問題ないというのは、やはり異常である。なんで道をあるくのに命を賭ける必要があるのか。もちろん人車分離が成ったとしても、車対車の事故はなくせない。しかし、筆者が主張するとおり車対車であれば事故そのものを防いだり、事故があっても被害を軽減させる工夫は出来る。しかし、対歩行者の事故についてはこれは非常に難しいのである。

事故を防ぐのにモラルに頼るのは意味がないと私は思う。例えば工場で事故を防ぐためには、社員に気をつけろと命令するのではなく、事故が起きる原因を排除するように工夫するものである。同様に交通事故を防ぐためには、運転者のモラルに訴えるのではなく、事故が起きる原因を排除するべきだ。交通事故の加害者に対する厳罰化も警察の取り締まりもモラル向上を目的としているわけで、その効果はゼロではないかもしれないけど、効果は高くないと思う。厳罰化は復讐や危険人物の社会からの排除という意味もあるので、それ自体がまったく意味がないわけでもないけれど。